鎖を繋ぐ「啓蒙」、越境する創作
少し前に、日本語ラップリスナー界隈で話題になった記事がある。目次の下の記事だ。以下、様々な観点から思ったことをつらつら書く。
まえがき
人の主義主張について、命令する権利は誰も持っていない。私も「あなたの主張を変えろ」とも、「主張するのをやめろ」とも言わない。そのかわり誰かに「変えろ、やめろ」と言われたら「は?」と答える。人の人生を妨害する権利など誰も持っていない。
だから私は「あなたの考えのここがダメ、こうすれば良くなる」とは言わない。何が「より良い」のか、価値観は個々人のバックグラウンドに依る。ものの受け止め方・解釈も違う。分かり合うためのコミュニケーションは放棄してはいけないが、「完璧な相互理解」は諦めるべきだと思う。それがなされた瞬間、人は誰かのコピーになってしまうからだ。
「あくまでも、私は、こう思った」ということを書き記したいと思う。このように思った人がいることを、インターネットの濁流に小石を投げ込みたかった。「こう読まれたい」と思い言葉を連ねるが、解釈を強制することはできない。作品は放たれたら受け手のものだからだ。
前置きが長くなった。本題に移ろう。
本論
まず元の記事について、論の展開を整理する。日本のヒップホップ*1が内包する問題としてミソジニーを提示する。ポリティカル・コレクトネスでストリートカルチャーを批判するのをナンセンスとしつつも、ミソジニー表現を問題視している。「嫌なら見るな」から話題が転換し、ファンのあり方論になる。そして「差別は社会の仕組みの問題である」と差別問題に話題が戻り、差別なき社会を実現していくため「声を上げるファンである」という宣言で締められる。
以下、私が思ったことを論の展開に沿って述べる。
ヒップホップカルチャーと女性差別
ヒップホップは文化(形式)を指す言葉である*2。その定義は人により異なり、時代により変化している。アメリカの黒人はじめ「被差別」コミュニティ発祥の文化は世界中に広がり、土着化している*3。かつては「被差別」と発祥コミュニティから見なされなかった社会集団にも広がっている。確かに共通する「B-ボーイ/ガール イズム」、美意識・価値観はあるだろう。その中には「過剰なほどマッチョで女性蔑視的な」「男子中学生並みの女性観」もあるだろう。
しかしすべてのヒップホップ(ミュージック)がそうだとは言い切れない。「議論・コンペティションの場」であるヒップホップカルチャーは女性のプレイヤーも含むようになり、彼女らは彼女なりの「ヒップホップ観」を、どちらがイケてるか?というコンペティションの場で提示している。ヒップホップカルチャーは、ヒップホップ観を更新していく場でもあるのだ*4。
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もはや特定の属性のみの文化でなくなったヒップホップに対し、一部の極端な例の、極端にとられかねない発言やリリックのみを恣意的に抽出し、「女性蔑視的」とラベリングするのはステレオタイプ化に思える*5。ヒップホップのコンペティション空間では極論含め、様々な意見があり、どれがより「イケてる」のかを戦わせている。コンペティションの場で、ミソジニーのような社会的問題が顕在化される。議論の場があり、懐が広い点に私は惹かれる。
そもそもなぜ女性が勝利者の財産としてみなされるのか、なぜ彼らはそのような価値観を持つようになったのか。そこを考察せずに一部のヒップホップを批判するのはいかがなものか。差別が「社会的・構造的」なものであるのならば、差別側も社会構造に巻き込まれてしまった人と言えるのではないか。
価値観の物差しで、優劣をつけるのは暴力的な行為だ。かつてナチが「公認芸術」「退廃芸術」と題した展覧会を開いたことに論理は変わらない。少なくとも作品やものを批評する時は「○○な背景を持つわたしが、△△な価値観から見たとき、この作品は優れている/いない」と語るべきであり、「この尺度でクソだからあの作品はクソ」と語るべきではない*6。
退廃芸術とみなされたクレーの絵
ある集団にとって当たり前な文化やローカルルールが、広い「社会」では不適切になるのはよくあることだ。週刊誌等が悪しき慣習を白日の下に晒し、「時代錯誤」で「常識外れ」と断じる。私たちは「常識外れ」なそれを批判するが、なぜそのルールがまかり通り、合理的とされたのかまで思いを馳せる人はどれほどいるのだろうか。「正義」が幅を利かせた魔女狩りの跡地には、何が残ったのだろうか。
なぜ広く読まれたのか
この記事は「あるリスナーの葛藤」と題されつつも、多くのpvを集めた。多くの人にとって身近な事柄を扱ったためだと推測できる。ありとあらゆるジャンルの人間が議論し、苦悩する「ファンのあり方」という問題だ*7。そして女性差別・ミソジニーを皆が責任を負っている問題として扱っている。ヒップホップリスナーである筆者の葛藤は、女性差別という普遍的な問題を扱うためのケース・スタディとして使用されている*8。
もちろん、ファンのあり方論と筆者のミソジニーを問題視する考えは不可分のものとして提示される。しかしここでの「ヒップホップ」や「ミソジニー」は、読み手が属するジャンルで、読み手が不満に思っていることに置き換えることも可能である。このフォーマットの普遍性が多くの支持を集めた原因と推察できる。
悩むファンのイメージ
ファンのあり方論
ファンのあり方論について。好きなもの/ジャンルが自分の価値観にそぐわなくなった時、問題があると感じた時、どうすればいいのか。ここでは「嫌なら見るな」という言葉を「イエスマンのみ残ればよい」と解釈している。そしてファンでも「嫌」な人は蚊帳の外だと*9。
このような現象を前にしたとき、当事者が取れる行動は大まかに分けて3パターンある。1つ目は心の中にわだかまりを抱えつつも、無言でファンであり続けること。2つ目は批判しながらファンであり続けること。最後は立ち去ること。おそらく批判するファンが最も少ないのではないか。
マズローのピラミッドを見ればわかるが、生理的な要求の次に優先度が高いのは安全性への要求だ。身体的に安全な居場所を手に入れた人間は、精神的な場所を求める。人が精神的テリトリーを侵略されたと思う時、過剰反応するのはどの文化でもよくあることだ。
記事ではイエスマンの信者である道、「安全な」ヒップホップのみ聞き無言でファンを続ける道、声を上げる道が示されている。立ち去る道は筆者のポリシーに反するため眼中にないようだ。
ファン集団の中でどのような「ファン」であるか。この問題は異文化コミュニケーションの話に近い。「ここは私の居場所ではない、別の人々の居場所になった」と考え精神的な居場所をひっこすのか。できる限り衝突を避け、当たり障りなく「ご近所付き合い」するのか。それとも問題を顕在化させ、住みよい居場所を作っていくのか。ここにはコミュニケーションや世界のかかわり方の考えが表れており、絶対的な正解はない。どれを選ぶかは個人の思考に依り、問題は複雑だからだ。
この問題に関して、私が言いたいことは一つだけだ。差別含め、生きづらい社会を変えていくため、声を上げること、問題を顕在化させることは必要だと考えている。
しかし、フィクション・創作において差別をはじめとする「汚い」表現が消え去れば、生きやすい社会は達成されるのだろうか?と私は思うのだ。創作物に差別的な、「汚い」表現がなくなれば、そこにユートピアは生まれるのか。仮に一つの集団で汚い表現が消えても、別のところに汚い表現がある集団が生まれるだけに思える。様々な人間がいて、誰もが多かれ少なかれ負の側面は持っていると思うからだ。理想に溢れたきれいな表現ばかりの世界は、むしろディストピアを想像させる。私は人間を「100%美しい」存在として見ていないからそう思うのだろう。
差別なき社会をと語る者の一部は、反差別を錦の御旗にして「差別的な人間・表現」を正義の名のもとに一方的に断罪していないだろうか?彼らの背景や価値観を考慮することもなく、優劣をつけてはいないだろうか。この世の中の問題は複雑で、様々な価値観や考えが衝突し絡み合う。ひとつの主義主張や理論があらゆるケースで万能なことはない。ひとつの「正当な」価値観・思想を何でも解決できる魔法の杖として使うことには、疑問を呈さずにはいられない。
鎖を繋ぐ「啓蒙」、越境する創作
一つの価値観を絶対的に正しいものとし、そこから外れた者は背景も精査せず「劣ったもの」とラベリングして見る。少なくとも私は記事からそのようなニュアンスを受け取った。これが絶対的に正しいから。相手の事情も聴かず広げられる「啓蒙」は逆に生き方を限定し、逃げ場をなくしているように見える。おそらくユートピアは実現できる、素晴らしい考えはあらゆる人に広まるという希望と性善説がるのだろう。私は人間は誰だって負の側面を有している*10し、人と人はみな違うから分かり合えないと思っている。
何が「正しい」のかは誰もわからない。言葉を尽くしても、分かり合えない。けどべつにそれでいい。そのままでいていい。あなたは私にならなくていい。私は勝手に生きるので、あなたも勝手に生きてください。私が言えるのはこれだけだ。
創作物やフィクションの価値をどこに求めるかは人それぞれだ。コンシャスさも、露悪的な点も価値でありうる。ただ創作物やフィクションに「価値がない」とラベリングすること、「価値なき創作」を切り捨てる行為は狭量だと思う。実用性だけで人間の創造を測るのは生産性で人を測るのと同様ナンセンスだ。創作物やフィクションは、様々な価値観を内包し越境する。時に世の中の複雑さを提示する。私は世の中を笑い攪乱する創作の可能性に賭けたいと思う。もちろん、私がそう受け取らなかった創作物を放っておきながら。
最後に、なのるなもないのインタビューを引用して筆を置きたいと思う。
■いまでも自分がヒップホップをやっているという意識はありますか?
なのるなもない:スタンスとしてそれはあるよ。いろんな表現があるなかでよく「これはヒップホップじゃないね」とか言う人がいるけど、「その考え方がヒップホップじゃない」と思うときもあるよね。そもそも破壊と再生をくり返して、吸収して進化を続けるものだと思ってるからね。(後略)
■降神の初期や前作『melhentrips』のころと比べると、毒々しさは薄まりましたよね。
なのるなもない:そうだね。でも意味ある毒を与えたいとは思う。ただ、自分のなかから出てきた毒を無責任に放つことはしたくないよね。
■吐き出す毒に、より責任を感じるようになったということですか?
なのるなもない:うん、それはある。吐き出した毒で(リスナーを)どこへ連れて行きたいのか?ということには意識的になるべきだし、(表現者は)みんなそうなんじゃないのかな? わかんないけどさ。キレイ過ぎてもしっくりこないときもあるし、毒っていうものはどうしても潜んでしまうと思う。皮肉や毒がない世界で生きられたらいいけどね。
NHKの「みんなのうた」じゃないけどさ、みんなのうたを歌いたいというのはあるよね。みんなが存在している世界について歌わないとやっぱりウソだと思う。でも目に映るすべてをそのまま伝えるべきとも思わない。
2018/8/26 一部修正・加筆
*1:この記事では日本語ラップが、ヒップホップカルチャーの代表的なものとして挙げられている
*2:ヒップホップの四大要素はラップ、DJ、グラフィティ、ダンス、とされている。音楽ジャンルを指す言葉として使用される際、ラップミュージックを指す用法が一般的だ。しかしラップはあくまでも歌唱法の一種である。ラップを含まないヒップホップミュージックも存在し、ラップを含むもヒップホップカルチャーに立脚しないものはヒップホップミュージックとは見なされない。後述の理由により、何を「ヒップホップ」とするのかは、定義が曖昧で主観的な問題のため難しい。日本でヒップホップ批評をする際、「日本語ラップ」「J-ラップ」「ジャパニーズ・ヒップホップ」という言葉のニュアンスはそれぞれ異なる。
*3:海外のヒップホップ・ラップについては、以下の本がある。
またモンゴルのヒップホップについても以下の記事がある。記事内で言及されている映画「モンゴリアン・ブリング」にはモンゴル初の女性ラッパーが登場する。
*4:beastie boysが、同じフェスに出演するデジロックバンド、the prodigy の smack my b××ch up の演奏に反対したことがある。表現の自由とポリティカル・コレクトネスにまつわる問題を先取りしていたと言える。この論争の中で、かつて「ミソジニーの丸出しの」「ティーンのような悪ふざけをした」彼らがどのような軌跡を経て「心を入れ替えた」のか、彼らがいかなる論理を提示したのかを見るのも、コンペティションの場としてのヒップホップを考える一助となるだろう。
www.mtv.com
the-dirtchamber-jp.blogspot.com
*5:コンペティションについてや、なぜ「恣意的な抽出」と言えるのかは以下エントリ参照。「あるリスナー…」で引用された文献やインタビューが元々どのような文脈に置かれていたのかも解説されている。様々な論考やUSヒップホップを参照したうえでヒップホップの可能性について論じられている。「リアル」であること、オーセンシティについてのトピックは、ヒップホップカルチャーの特性を考える一助となる。
*6:そういう意味でも前回のエントリはやや感情的に書きすぎたかなと反省している。
*7:事実、i-Dの惹句も「ファンのあり方論」に主軸を置いている。
*8:「個人的なことは政治的なことである」第二次フェミニズムのスローガンに忠実な構成と言えるだろう。
*9:そもそもヒップホップカルチャーは多くの人間によるコンペティションの場であり、何がイケてるかを更新し続ける場であるという話を思い出してほしい。筆者が挙げている椿やあっこゴリラのようなラッパーもそこにいるプレイヤーだ。
*10:でも「100%負」だと諦めたくはない