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評価基準を他者に求める呪い ―「半分、青い。」の恋愛・創作観

 半分、青い。マジなんなんだろうな。まー君と恋愛したり清とバチバチにやりあったり秋風が創作論振りかざしてるあたり面白かったんだけどな。その時からツッコミどころは多少あったが、まだこのセリフはいいこと言ってるなと思えるとこはあった。すずめが下り坂になってから1984年の3分間憎悪ならぬ15分間憎悪なのではないかと思えてきた。何に対しての憎悪かな?古臭い考えだよ。

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 


 twitterで反省会タグあさってると脚本家やキャラクターへの過剰なバッシングが目に付く。しまいには脚本家のツイがスポーツ紙の記事になるほどだ。個人や、役者さんが演じているキャラクターを叩きたくはない。役者さんの演技は素敵だ。あくまでも脚本を批判すべきであって、脚本家に矛先を向けるべきではないと思う。ただ脚本の残念さは脚本家の思想と表裏一体だから、難しいものなのだが。

 


 すずめが下り坂になってから、何が耐えられなかったのか。この作品の何が古臭いのか。一言で言えば「評価と判断基準を他者に求めていること」だ。これは上昇志向やマウンティングに繋がっている。恋愛でも、マンガの創作でもだ。

 

「ん?」が顕在化したのはユーコが荒れてからだ。作中の時代背景と、筆者の世代感を考えれば仕方ない部分はあるのだが、それでもマジなんなんだよと思った。

 

「若さと美しさは何のためにあるの、町で青春を謳歌するためでしょう」
「このままでいたら女が腐ってしまう」

 

 そんな趣旨のセリフを聞いてふざけんじゃねぇよと思った。自らの若さ・美しさの良さの理由を、男に買われる「売り物」であることに求めたくねぇよ。「腐ってしまう」なんて男目線の「結婚市場」の言葉だろ。別に男に判断されることが問題なのではない。評価の尺度が他者なのが問題なのだ。

 

 

ちなみに「人は見た目が100パーセント」はタイトルに反して(?)、 男ウケの「カワイイ」でなく、自らカワイイを取得するため試行錯誤する過程を肯定するシーンをラストにもっていって舌を巻いた。意外と新しい作品だったりする。(てかDVDないのかよ……)

 

 

 「25までに結婚しないと詰む」といったクリスマスケーキ理論もそれだ。25まで結婚しないとヤバいというのはあくまでも当時の世間体の問題だ。いくら当時がそんな時代だったとはいえ、かけがえのない自分を評価するのが、上から目線で値札をつけるのが、役割やステータスでしか人を測れない他者でたまるものか。

 

 「片耳が聞こえないから就職/結婚できないのか」
「マンガ家やってて28なんて、扱いづらそうと思われるかもね」

「そろそろお嫁に行かないと」

 

 筆を折ったすずめは丸の内OLになりたかったけどダメだったと語る。ユーコから紹介された男性のスペックを見て「玉の輿を狙うぜ(でもやっぱ恋愛もしたいな)」とぼやく。ここでもすずめ達は人をスペックでしか見ていない。こんな人と結婚したら世間では勝ち組と思われるだろうという打算が見え見えである。幸せってなんだっけ。恋愛したいなと思ってる点救いはあるが。

 

 

 すずめたちはどうして執拗に他者からの視線を意識するのか。他者からの評価を基準とするのか。人気が無ければ打ち切られる連載マンガ家だったからだろう。

 

 

 もともと家族からの承認が得られなかったユーコは、マンガで得ようとする。マンガがダメになると美貌と若さで男からの承認を得ようとする。自ら喜んで顔がイマイチな*1実業家のトロフィーワイフになる。キャリアをあきらめいいお嫁さん・よき母になるというのはよくあるパターンだが、「若い・美しい・いいとこのお嬢さん」で自らを売る。結局そこにあるのは、役割やステータスでしか人を見ない空疎な世界だ。

 

 

 すずめは何を動機にしてマンガを描いていたのだろうか。秋風にあこがれ、ありあまる感受性を持ち、いつか秋風を超えるほどのマンガ家になってやると野望を抱いた。失恋で傷心のすずめに、秋風は描けと言った。自分の心を見つめ、作品に昇華する。そうすれば自分もそして読者も救われると。

 


 作中で秋風が1流のマンガ家であるのは、多くの人を救っているからなのだろう。そうして多くの人の評価を得ているから。すずめは才能がない、描きたいものがなくなったと言い筆を折る。

 

「3流のマンガ家じゃ意味がない」

 

 それはどうなのか。世間体の問題じゃないのか。たくさんの人に支持され、たくさんの人を救える作品のみ存在価値があるのか。すずめのマンガが読者から感想を得る描写はデビュー以降ない。よりたくさんの、マジョリティを構成する他者に評価されることだけが価値あることなのか?他者の評価が絶対の世界では、多くの人を惹きつける作品だけが正義なのか?そもそも、創作は他者の評価が絶対の世界なのか?

 

 

 失恋以降、作品や創作の価値は「他者に評価されるものを作ること」「他者を救う事」が第一なのだ。でも、それだけで、それを第一にして創作ってするもんなのかなぁと思ってしまう。描きたいから描く。欲しいものがないから作る。第一はエゴだ。でもエゴを形にして世に問えば共感なり反感なり反応が返ってくる。あ、一人じゃないのか。私を求める人がいるのか。うれしい。もっと自分の世界観を世に問うてみたい。そうしてちょっとでも人を楽にしたい。最終的に行きつくプロセスは秋風のそれと同じだ。でもすずめには「欲しいものがない、つくる」というエゴがあったのだろうか?

 

camp-fire.jp

 

さっそくですが、みなさんはなにが欲しいですか?

ぼくらが欲しいものはまだこの世界に無いです。

だから自分たちで作らなければなりません、普通のものは放っておいてもだれかが作ってくれます。

夢を大事にしたい。生温いかもしれませんが本気です。

そしてそれは、ぼくら以外のだれかにとっても魅力的なものだと信じています。 

 

しかし、それを証明するためには「実物」が必要です。

「実物」をつくってみて、みんなに見せて「どう思う?」と聞いてみたいのです。

 このプロジェクトの目的は、CDを作る資金を募るという名目です。しかし、より大きな目的はビジョンを共有できる「仲間」を募ることです。

 

 そしてユーコの引きこもって創作するマンガ家はオタクと変わらないという発言。ここで問題なのはオタクをdisったことではない。自らの創作活動が、世に流通するものであるかぎり社会的なものであることを見落としている点だ。

 

 

 ドラマになるようなマンガだけが価値があるのではない。様々なマンガがあり、多様な文化がある。ニーズ性癖よりどりみどりの、このドラマでは「2流」「3流」断じられるような作品があってこそ「1流」の作品だって輝く。「1流」の作品しか意味がない世界では、「2流」「3流」と断じられた作品の愛好者にとってのディストピア*2

 


 私自身、就職活動で出版社の説明会にも足を運んだ。もちろん収益を上げなくてはいけないシビアな側面はある*3。連載マンガ家たちもその現実を日々直視せざるを得ないのだろう。ただその制約の中でも、より豊かな創作・出版文化を生み出せる人材を求めていた。大手でも中小でもそれは変わらない。

 

nlab.itmedia.co.jp

 


 この作品の問題は、「多くの他者から承認を得るのが偉い」といった価値観に尽きる。自主性も、エゴも何もない。そして他者に依拠した評価基準はなぜかテレビの前の視聴者の首を絞める。自らで自らを肯定する価値観の欠如が、古い価値観とらせんを描き視聴者を沈める鎖となっているのだろう。所々いいセリフやおもしろいところもある分残念に思う。

 

 「神はあなたをこのようにつくり、このままのあなたを愛している」
「あなたも自分自身を愛しなさい。人々の言うことを心配してはいけない」

 

www.cnn.co.jp

 

 このドラマに鎖を感じる人へ、この言葉を送りたいと思う。もちろん、作中の登場人物や、かれらを生んだ作者にもだ。未来は僕らの手の中にある。

 

 

 

関連エントリ

grjti.hatenablog.com

 

 ほぼおんなじ内容ですが。最後のほうだけちょっと違うこと書いてます。

twitter.com

 

2018/7/9 に一部修正・追加、タイトル変更。

*1:と書くのもルッキズムの極致で申し訳ないが

*2:というかそもそも作品や漫画家として1流2流ってランク付けするのがナンセンスだが。もちろん売り上げデカい大作家は重用されるだろうけど。

*3:おそらく「視聴率」というシビアなレスポンスに晒され続けた脚本家は、ランキングを気にするマンガ家像を作り上げたのだろう。そこに取材不足と自己投影があると考えるのはいささか深読みしすぎだろうか。