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伝統を逆手に取るマジック  宝塚歌劇団月組「BADDY――悪党は月からやってくる」(2018)

※当記事はショー・テント・タカラヅカ「BADDY――悪党は月からやってくる」のネタバレを含みます。読んで観ても楽しいですが、ぜひ予備知識なしで観るのをお勧めします。amazon primeで1週間550円、1時間で見終わります。1時間でキメてトベられます。

 

 

 

これがタカラヅカなの……!?

 
 ある作品との出会いが、人生を大きく変えることがある。そういう出会いは往々にして偶然だ。年末、家でぼんやりしているあの時、そのショーを見ることがなかったら。わたしはこんな文章を書いていないだろう。
 

 リビングに置かれたテレビに流れていたのは想像を絶する舞台だった。なにこれ。BSで放送された宝塚のショー。しかし宝塚なのかこれ。SeapunkやVaporwave、きゃりーぱみゅぱみゅのような色彩。淡いくすんだピンク色のウィッグをつけ、ふわふわの青緑いろの衣装を着たヒロイン。貴族っぽい人もいるが頭の上に地球儀を乗っけていてなにかがおかしい。宇宙人?もいる。なんなんだこれは。タカラヅカといえばベルばらみたいなやつじゃなかったのか。宝塚のショーといえばゴテゴテの衣装に羽根をつけるやつじゃなかったのか。これが私と「BADDY」の出会いだった。
 
 どうやら未来の地球の話のようだ。悪いことは全部しちゃだめで、喧嘩も飲酒も喫煙も犯罪も全部だめ。地球儀を頭にのせた女王様が元首で、ワルイ奴らは大昔に月にすべて追放し地球を統一した。ヒロインのグッディ(写真中央)は捜査官で、地球の平和は彼女によって守られている。103年間犯罪件数0記録を更新中。人々は天国に行くことを人生の目標としている。王子は「悪い」の意味すら知らない、平和ボケした世界。

 ……なんなんだこれは。"ピースフルプラネット 地球"。もはやこれはユートピアの皮をかぶったディストピアSFじゃないか。これが宝塚なのか。地球首都TAKARAZUKA-CITYってなんなんだ。一体どこから突っこめばいいのか。

 そこに月からクールでホットな宇宙一の悪党(!?)、バッディが仲間を連れて乗り込んでくる。グッディの警告もお構いなしに煙草をスパスパ吸い、舞台上の禁煙マークを喫煙マークに変えてしまう。
思わず「『最後の喫煙者』かよ!!!!」と叫んだ。ナンセンス社会風刺SFの代表作じゃないか。これが宝塚なのか、これが……!?!?
  
最後の喫煙者 自選ドタバタ傑作集1 (新潮文庫)
 

 

 なんなんだこれは。これが宝塚なのか。宝塚のショーなのか。度肝を抜かれた。四の五の言わずに映像を見てほしい。

 

(3分から。)

 

BADDY-悪党は月からやって来る-('18年月組・東京・千秋楽)
 

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 細かいあらすじはほかの人の記事に譲ろうと思う。一言で言えば善=グッディVS悪=バッディの話だ。そして敵対する二人がお互いに対し愛憎抱くようになり、クライマックスまで突き進む。twitterで詳細かつ素敵な布教イラストを描かれているかたもいる。ぜひ見てほしい(美しさは罪、美弥るりかが罪、ほんと分かる……ビッグシアターバンク舞踏会のスイハ様をみてありがとうと何度も叫んだ。ガーターベルトがたまらねぇな。妖艶でスタイリッシュな悪女フェチのオタクは全員見よう)
 

 

 

 この作品の魅力はいたるところにある。演者の素晴らしさ、衣装のかわいさ、振り付けのおもしろさ、音楽のキャッチーさ*1。しかしこの作品を見た時、即座に思ったことはひとつだった。一体こんな奇想天外な作品を作った、演出家・上田久美子とは何者なんだ。彼女の頭の中はどうなっているんだ……?上演当時、多くの人の度肝を抜き、大きな話題を巻き起こしたというこの作品の新しさについて語りたいと思う。
 

形式を逆手に取る


 BADDYのすごさ、それは宝塚のショー形式を換骨奪胎しショー表現の可能性を広げたこと。この一言につきる。このショーは非常に他に類を見ないショーであるけれども、とても宝塚らしいショーでもある。


 宝塚のショーは、基本的にストーリーはない*2兵庫県宝塚と東京日比谷で行われる大劇場公演では、芝居とショーの二本立てが通例だ。芝居で物語に浸った後、レビューとしてのショーを見る。コンセプチュアルなテーマがつき(ウィスキーとか四季折々の花とか猫のように美しい男とか)、テーマに合わせた衣装で歌い踊る。
 
 テーマソングを歌うオープニング、2番手3番手のスターが歌うシーン、組子が大集合する中詰め、娘役たちのロケットダンス(ラインダンス)、男役たちの大階段黒燕尾、トップ二人のデュエットダンス、そして最後に宝塚の代名詞、大羽根を背負ったフィイナーレで幕が閉じる。ザ・タカラヅカとしてイメージされるロケットダンスや大階段、ド派手な大羽根はショーのものだ。宝塚の伝統・フォーマットといえる。しかし裏を返せば、マンネリ化しやすいということでもある。

 BADDYはこのフォーマットを守っている。オープニングの後、トップスターが登場しテーマソングを歌い踊る。3番手スターのソロ場面を挟み、中詰めで多くの組子が歌い踊る。舞踏会のシーンでは黒燕尾とドレスでトップコンビが踊る。娘役たちのロケットダンスのあとに、男役たちが大階段で踊り、トップ二人のデュエットダンス。最後に大羽根をつけたフィナーレ。ショーの形式をきっちりと守っている。
 

すみれコードディストピアSF


 ではこのショーの新しさとはなんなのか。このショーが拡張した表現とはなんなのだろうか? 冒頭にあげたディストピアSF要素もその一つだろう。しかしSF作品は宝塚で珍しいわけではない。宝塚の世界観を(一見ユートピアに見える)ディストピアSFとして利用すること――ここに上田久美子の空恐ろしさがある。
 
 BADDYには、今の社会でなされている「善」へのするどい批評が隠されている。TAKARAZUKA-CITYを首都とするピースフルプラネット・地球は、すみれコードに守られた夢の世界。しかし上田は夢の世界のすみれコードを「ユートピアのふりしたディストピア」の道具として転調させた。それも巧妙に!ショーを見ていくとどんどん「ピースフルプラネット・地球」の水清くして魚住すまずな世界に疑問を抱き、やりたい放題のバッディーズに惹かれていく。その過程はグッディの愛憎とパラレルだ。*3「清く・正しく・美しく」の世界観を守りながらそれを逆手にとったこのアナーキーさには舌を巻くしかない。

 演出家の思想や批評が全く反映されていない作品などない。どんな作品でも、多かれ少なかれこの要素は入る。上田の巧さは、それを分かりやすく、しかし押しつけがましくなく差し出す演出力なのだと思う。

 社会風刺をエンターテイメントの形で差し出す。軽く見れば善と悪が戦う楽しいショーだ。しかし深読みすれば一気に物語は違う楽しみを魅せる。上田がインタビュー等で語るのは「無菌化された社会」への恐怖だ*4コンプライアンス意識が進み、一見清らかになった社会。しかしそこはユートピアだろうか?細々とした炎上は続き、自粛の空気が流れ、同調圧力が進む。

 

 
天国なんて行きたくない
天国なんて
ばぁさんたちの行く場所さ
冗談じゃねぇ!

 

と不謹慎スレスレな歌詞を歌うバッディ。宇宙一悪党な彼は縛られない。自由だ。自分の価値観も譲らない。落ちてやるぜ地獄。核戦争も核家族も受験戦争も夫婦ゲンカもタバコも奢ることも禁止された、ピースフルプラネット・地球が喧伝する「善行を積めば天国に行ける」というドグマを笑う*5。人間、はみ出しているものに惹かれるんじゃないか。いかなる状況でも自らの信念をつらぬく姿が素敵なんじゃないか*6。一歩間違えれば燃えてしまうようなテーマを、楽しいエンタメに、そして読みどころの深いショーに見せる。
 

ガラパゴス宝塚の男女観


 BADDYは非常に今の社会を反映し、諷刺したショーだ。展開も音楽も衣装も現代的だ。宝塚は上田の言葉を借りれば非常にガラパゴスな世界*7だ。箱も、人も、スタッフも基本すべて宝塚歌劇団内でまかなえる。そのため宝塚特有の世界観が守られ、ファンは伝統のすみれ色の舞台に酔いしれる。*8。だが同時に所々アップデートされない点もある。どんなに若いスタッフが入ってきても、毎年新しい生徒が入団しても、だ。

 宝塚はどうしても男女恋愛を描く作品が多い。ときたま芝居を見ていて「あっ……(この女性の描き方はアウトや)」と思うことがある。面白いし、仕方ないと思うけれどPC的な目線ではアウト。先ほどコンプライアンス社会への批判について語ったあと掌返しだと思われるかもしれないが、どうしてもこれは避けて通れない。

 男役/娘役というシステムも男/女のジェンダー二項対立の世界観から離れることはできない。女性のみの劇団で、女性でもトップになれる世界。しかし組や歌劇団のの顔とされるのは「男役トップスター」であり娘役は女房役を求められる。グッディ役の愛希れいかのバウホール(宝塚の小劇場)主演公演は「娘役トップでは異例の」という枕言葉がつく。女性ファンが男役スターを愛でる例が多い宝塚の世界。女性消費者が、女性が作る価値観を享受し消費するという点で、女性が主体的な場だと言えるだろう。女性ファンが娘役の生徒にあこがれることもある。しかし、そこで生産される恋物語や世界観は、男役が主であり娘役が従、男役がヒーローであり娘役が救われるプリンセスである。結局、男女二項対立の世界観と男が主であり女が従であるという世界観を再生産しているのだ。そして、この「伝統」も保存される。

 宝塚歌劇104年(当時)の歴史で、上田久美子は女性初のショー演出家となった。「私がコケたら、もうショーの女性演出家が出ない」というプレッシャーは相当のものであっただろう。そして生み出されたこのBADDYで、上田は宝塚のジェンダーロール・世界観をこれまた伝統を逆手にとって転倒させる。いまだかつて、こんな脱構築をなした演出家がいただろうか?
 

男/女の攪乱者、スイートハート


 まず挙げるのは男役2番手スター、美弥るりかが演じるスイートハートの存在だ。バッディの右腕で、中性的な容姿の麗人*9。ピンクのベロアスーツをさっそうと着こなす。バッディと上司部下以上の雰囲気を漂わせている。そんなスイートハートをみたグッディとグッディの部下、ポッキーは困惑する*10
 

彼は男
彼も男?
女?
わからない わからない
どうして どうして

 

 バッディとスイートハートがキスするとふたりは悲鳴をあげ、暴れまわるバッディーズを前にへたり込んでしまう。


 宝塚で男役同士のBLは珍しくない。スイートハートは「男とも女とも分からない」男/女二項対立の攪乱者として登場するのが特筆に値する。ちなみに歌詞カード曰く「身のこなしは非常に洗練された男性だが、女性の心を持つ*11」とのこと。男役の生徒のリアルそのものような記述である。マダム相手にジゴロもすれば、妖艶な女性の恰好で頭取をたぶらかし(このとき膝にヒールを乗せるのが本当に最高)色仕掛けで銀行強盗を成功に導く。スイートハートは性別を、役割を越境する。だから秩序だった世界の住人であるグッディたちは言葉を失う。地球から見れば、スイートハートはクィアだ。男でも女でもない、しかしどちらでもある。美弥るりかが拡張した男役の可能性*12と、スイートハートのあり方はパラレルだ。身体と心/男と女。心のあり方が身体に現れると、身体を規定すれば心のあり方が表現できると、一体だれが決めたのだろうか?

 

立ち上がる女たち、怒りのロケット


 そして何より、グッディたちのロケットダンス。バッディーズに惑星予算を盗まれ、地球の王子たちがさらわれたグッディ。彼女は怒りをソロで歌いだす*13
 
許さないわ 許せないの
私の信念を 覆すことだけは誰にもさせない

 

  ここからグッディは万能でパワフルな、国を守るスーパーウーマン……ものすごく乱暴に言ってしまえば、秩序の中の優等生から「意思をもった人間」への変貌を遂げる。立ち上がった強い感情が、彼女を変えるのだ。捜査官の仕事の意味合いも、大きく変わってくる。

 

 こんな気持ち 感情 はじめて知った
怒ってる 怒ってる 生きてる 私今

 

  このグッディのソロからロケットダンスに至る名曲、「グッディの怒り」は歌詞をすべて書きたいくらい好きだ。グッディの部下たち(グッディーズ)、女王や姫、娘役キャストがあつまりコーラスで歌詞を歌う。

 

活性化 活性化 私たち今生きている
怒ってる 叫んでる 涙流してる今

 

 体に血潮が駆け巡り、細胞が蘇る。娘役たちが怒りと叫びと悲しみを歌う。私たちは今生きている。自らの信念を曲げさせられている。この歌は、娘役――そしてその延長線上にいる一般社会における女性たちの歌と捉えても、おかしくないだろう。グッディはコーラスを受け歌う。叫ぶように。果たし状を叩きつけるように。
 

怒り 哀しみ 誰が 思い出させたの

 

コーラスが続く。
 
 嘆き 痛み 私 生きている私!

 

 ここから続く娘役たち――グッディーズのロケットダンス。通称怒りのロケット。そもそもロケットダンスは、新入生や年次の少ない娘役がニコニコ笑って踊るといったものだ。揃ったダンスがウリで、すごく乱暴に言ってしまえば固有の役名もない、モブだ。突出は許されない。宝塚のショーで一番古きレビュー的な所でもある。娘役さん足キレーだな……とダルマと呼ばれる手足がよく見える衣装を見ながら思う。そんなロケットダンスを上田は女性たちの連帯のシーンという意味合いに書き換えた。一番個性を重視されない彼女たちが「活性化 活性化 活性化!」と感情の高ぶりを、一個人として生きる契機を叫びながら踊る。このシーンを見るたびに、泣いてしまう。
 

許さない 許さない
この叫び 聞けよ
ここにある この命
今燃え上がれ!

 

 これは邪推だが、怒りのロケットはビヨンセのformationに触発されたのではないかとにらんでいる。隊列を組むことは、決して均一化・無個性を求めることではない。意思をもって生きていることを無視される、女性たちが今生きているのだ、無視すんな、邪魔するなと、怒り・叫び、連帯すること。これは上田久美子流の「Okay ladies, now let's get in formation」なのかもしれない。
 

(1:31~ビヨンセ。)
 
「役割」にとらわれていた女王たちも歌う。
 

いつしか 忘れていた
生きている 感情
忘れていた 血の色した命
私に返して

 


in order to fight myself
 in order to fight my own

  

 彼女たちは自らの信じる正義のため、正義のため、天国に行くため、バッディーズの逮捕を決意する。グッディとバッディは、最後互いの信念を貫くものとして対峙する。捜査官と悪党、男と女――たしかに既存の役割の上に立っているのかもしれない。しかし愛と憎しみが混ざり合うカオス・パラダイスは、アンヒバレントな思いは、「役割」を脇に置いて自らの意思が立ち上がるとき、自身も個として生きるとき、他者も個として生きるものだと認めたときに生まれるのかもしれない。二項対立で割り切れない面白さは、混沌は、不揃いな個性にあるのかもしれない。上田久美子は女性が感情を持ち、立ち上がる瞬間を描く。『人形の家』のノラを反覆する。彼女が宝塚の中で見事な転倒のマジックを見せていくのか。伝統の新たな読み替えが、楽しみでならない。

  

人形の家(新潮文庫)

人形の家(新潮文庫)

  • 作者:イプセン
  • 発売日: 1953/08/24
  • メディア: 文庫
 

 

 
 
 
 
 
 
 

Flying Sapa、見たかった……(幻の舞台にだけはしないでください宝塚歌劇団さんそしてTBSさん)。
 
 
 

*1:3名の作曲者どの曲も最高だけど、斉藤恒芳さんの曲がすばらしい。ビッグシアターバンク舞踏会の転調、シンセのよさについてはどこまでも語れる。大階段の曲、悪の華は90年代のunderworldっぽいテクノでクラブでかけたい宝塚曲第一位(※当社調)。

*2:名作「ノバ・ボサノバ」という例外はあるが。

*3:バッディは捕まえにきたグッディを「俺に惚れてる……!?」と勘違いするアホの子な一面もあるが、彼の言う通り悪の魅力で作中の女性も、観客も彼に惹きつけられていく。

*4:演出家 上田久美子が語る | 月組公演 『カンパニー -努力(レッスン)、情熱(パッション)、そして仲間たち(カンパニー)-』『BADDY(バッディ)-悪党(ヤツ)は月からやって来る-』 | 宝塚歌劇公式ホームページ

ウエクミ茶in京大 - Togetter

*5:ちなみにこのとき客層が高い(であろう)客席を指さしてるのが心憎い!「天国なんて じいさんたちのたまり場だろ」の3番はゲートボールの振りが入り芸が細かい。

*6:だからスイートハートはスケールが落ちたバッディーに幻滅を隠さないし、自らを貫いたポッキーに敵ながら「君こそダイナミックで、デンジャラスな男……!」と最大限の賛辞を贈る

*7:BS-TBSのFLYING SAPA特番での三宅純との対談での発言。

*8:宝塚のショーを見ていると、昔のレビューの香りにホッとすることがある(すみれコードによってお上品になっているとはいえ)ある種の猥雑さとショーとしての楽しさ。誤解を恐れずに言えば、こういう空間を残しているのは浅草ロック座と宝塚歌劇だけではないのかと思えてくる。

*9:ジェンダーレスな美を持つ美弥るりかでないとできない役だった。

*10:核家族禁止なピースフルプラネット・地球はきっとどこかの国のように古き良き家族体制が是とされ、子どもを産む男女ペアが推奨されているのだろうと邪推してしまう。きっと同性愛も「ダメ」いや認識すらされていないのではないか。ちなみにポッキーはヘタレ男子。グッディに思いを寄せ「止まり木になりたい」と願う(がバリキャリグッディは気付かない)。バリキャリヒロインとケアする男子という構図も真新しい。

*11:「心の性」は本当に実証可能なのか、本当は揺らぎがあるのではないかと見なされている概念ではある。

*12:男らしい男役でもなく、アイドル系の男役でもない、中性的な男役。

*13:グッディもパワフルな娘役である愛希れいかじゃないとできなかった役だと思う。