404 state

呼び起こす会話 音楽やアート

それでも通じ合いたい はなしがしたい ー「ピロウトークタガログ語」とガチ恋

こんにちは。先日、面影ラッキーホールことO.L.H.のライブに行ってきました。どんなバンドなのかはwiki見てください。一言でいえば「最高の歌謡ファンク曲に最低な歌詞をつけて最高な歌声で歌う」バンドです。おじさまやおねえ様方が着るのに勇気のいるバンTを着て楽しそうにフリをしていました。OAがこまどり姉妹だったのですが、ライブハウスで演歌が流れ手拍子で盛り上がるといった異様な空間がそこにありました。何はともあれ最低なMC含め最高のライブでした。

 

ライブで、いい曲だなぁと思ったのがこの曲。「ピロウトークタガログ語

 

www.youtube.com

 

タイトルの出オチ感がすごいですが名曲です。今までネタ曲だと思っていましたが名曲です(ネタ曲だけど)。ラジオ講座タガログ語あるかよといった野暮なツッコミはやめましょう。
この曲の何がすごいのか。メロディのよさ。ライブだと大人数のブラバンなので迫力が増します。しかしこの歌詞。曲の良さをぶち壊すどころか倍にしております。

 

新大久保に行けばあの娘に会える 街角に佇むあの娘
Vサインは2万円をあらわし 90分のラヴゲーム
ゲームに特別な意味を持った俺は 何時しか彼女を愛し
大きな隔たりはお金より 愛らしい口から洩れるタガログ語
 
アイリーン
言葉の通じない 褐色の肌
 
アイリーン
それでも通じ合いたい はなしがしたい

 

ああ……。わかる、わかるぞ……。
ラブゲームしたことないけどすごくわかるぞ……。
いったい何が「わかる」のか。歌詞を読み解いていこうと思います。

 

キーフレーズは「大きな隔たりはお金より 愛らしい口から洩れるタガログ語。これに尽きます。そして続く「言葉の通じない 褐色の肌」「それでも通じ合いたい はなしがしたい」
これほど「愛」について核心を突いた詞は恐らくないんじゃないか。

 

突然ですが「愛」って何だと思いますか。何でしょうね。「恋」との違いは何なんでしょうか。一般的な「恋愛」だけが恋であり愛なのでしょうか。ドルオタが推しに対する感情はガチ恋である/なし関係なく「愛」なのでしょうか。

 

世界には様々な「愛」があります。家族愛、親子愛、同志愛。師弟愛。世間一般で語られる「愛」は密な関係性の上に成り立っている愛です。一方アイドルやミュージシャン、スポーツ選手といった著名人を応援する、ファン心理は「愛」の枠外に置かれているような気がします。あくまでも「偶像とファン」であるから。密な関係性ではないから。アイドルとかは会うのにお金がいるから。話すのに、握手やチェキで自分だけとの時間を作るのに、お金がいるから。

 

 「すべての労働は売春である」

 とゴダールは言ったみたいです。わたしはこの言葉を、岡崎京子の『pink』で知りました。この言葉に同意します。モラトリアムという大学生活を謳歌してる身なので、本来は語る資格もないのでしょうが。自分の体(=労働力)を差し出し時間単位で売り物にし金を得る。性交渉の有無にかかわらず「自らを売る」という点において労働は売春なのです。

 

pink

pink

 

 

大正生まれの祖母は、生前わたしに芸能界に行くなと言っていたそうです。行けるほどの人間でないので余計なお世話だと思いますが。古い人の感覚で女優や芸能人といった職業を蔑視していたからでしょう。なぜ芸能人を蔑視したのか。社会状況や時代背景もあると思いますが、彼(女)らは「娼婦性が高い」からではないかと思うのです。芸能人が枕営業しているということではありません。彼(女)らの仕事は「パーソナルな部分を売っていく割合が高い」のです。

 

キャラクターや生活、生き様を売らなくてはいけない。考え方を、ヴィジュアルを売らなくてはいけない。彼(女)らは「自分自身が商品」なのです。一般労働者は「自分の能力」が商品なのに対し、より自分に近いものを売っていかなくてはならない。替えが効かない、唯一無二といった要素による満足感も大きいでしょうがリスクも高い。

 

ミュージシャンや、スポーツ選手はアイドルではないといった意見もあると思います。本来はそうだとは思うのです。しかし、一部のミュージシャンやスポーツ選手はその生き様、その人の人間性が「ウリ」になっている場合もあります。そこに魅せられているファンもいると思います。純粋に作品や強さ、技が好きなファンもいるとは思うのですが……。またスポーツも、「物語」ばかり報道していいのかといった問題も取りざたされます。作品や、競技っぷりには作り手や選手の人間性がにじみ出てしまうものなので、彼らが結果として「人間性」を意図せず売ってしまうのはやむを得ないことだと思います。ミュージシャンの場合は意図的に「キャラクター」を売っていることもありますし。
 
そこに関する葛藤や感情は、以下エントリにしたためました。あくまでも個人の意見ですが。
 
なのでここではミュージシャンやアスリートも「アイドル」として定義します。「人間性を(結果として)職能としている」人です。偶像という意味も込めて。
 

パーソナルなところをあけっぴろげにしても苦にならない人もいるでしょう。プライベートを晒しても全然平気といった人もいるでしょう。しかし芸能人やアイドルを愛でるということは、「人」を愛で「人」を愛し価値を認めお金を払う。コンサートで(1or数人対ファン集団の形でも)会いたくてチケットを買う。1対1で話したくてチェキを買う。「人」からサービスを受けるために金を払う。根本的な構図は売春/買春と変わりません。

 

もちろんアイドルやミュージシャンのファンには「人」に興味がなく「作品」が好きだからコンサートに足を運ぶ人もいるでしょう。ただ昨今の潮流としては、「人」が好きで行く人が多いのかな、と感じます。私自身ももそのタイプなのでしんどくなることもしょっちゅうです。「作品」だけ純粋に愛でられる人を何度もうらやましく感じました。
 
 
アイドルや芸能人は、自分自身が商品であると書きました。これはある意味では正しいし、ある意味では間違っています。ルックスなどが「商品」であるのはどんな芸能人でもそうでしょう。ミュージシャンの場合はそうじゃない場合も多々ありますが。自分の生き方や人間性、他の人との関係性も商品であったりもします。ただこれに関しては、必ずともすべての芸能人が「リアルな自分」を売っているとは限りません。パーソナルなところを守りたい、仕事とプライベートは別と割り切ってる人は「アイドルとしての自分」を商品として作り出すこともあるからです。「パーソナルなところ」込みでその人が好きなのか。「アイドル・芸能人として仕事をしている」商品としてのその人が好きなのか。そもそも、ファンがみられるアイドル・芸能人等はどれほど「リアル」なのか。
 
 
ファンはそれが分からず苦悩します。「商品としてのアイドル」が好きな人はなにがあろうとドライに割り切れるでしょう。しかしアイドルの人間性が好きな人はどうなるか。熱愛報道や、プライベートなやりとりが流出する。自分が知らないアイドルがそこにある。自分が知ってるアイドルはどこまでリアルなのか。愛していたのは蜃気楼なのか。それとも自分たちのために蜃気楼を出していたのか……。
 
 
「人間としてのアイドル」が好きな人はアイドルのことを知りたいのです。好きな人のことを知りたい。パーソナルなところを知りたい。きっと自分が見てるものは「リアル」(に近いもの)だからもっとパーソナルなところを知りたい。距離が近く密な現場にいる人は、「自分とアイドル」の密な関係性を構築したい。アイドルと「それでも通じ合いたい はなしがしたい」。ファンとアイドルという関係性にもかかわらず。顧客と商品にもかかわらず。観客と舞台の上の人であるにもかかわらず。その時、障害になるのはお金ではないのです。その人が職業ではみせないパーソナルな部分なのです。
 
ピロウトーク タガログ語
ほんの少し 話したいだけ
 
ピロウトーク タガログ語
あの娘のことを 知りたいだけ

 

「ピロウトークタガログ語」の話に戻ります。この曲でのタガログ語」は自らを売る人が持つ、商品でない部分なのです。商品としての「人」のパーソナルな部分。性交渉の相手でなく、いち個人として娼婦に恋に落ちた「俺」は「娼婦」でなく「アイリーン」が好きなのです。パーソナルな部分を知りたくなること、その人のことを知りたいと思うこと。それが「好き」な気持ちなのではないでしょうか。

 

ただ知識欲だけで「恋」と言えるなら偶像と観客の関係性でも「恋」が成立すると言えます。これだとちょっと言いすぎな感じもします。そこに「他の人では成り立たない、唯一無二のコミュニケーション」を求めると「恋」になるのではないでしょうか。愛は一方通行でも成立するような気もしますが。「恋」は見返りを求めるような気がします。というか書いてて「恋」と「愛」の違いが分かんなくなってきました。「ファン」としての唯一無二のコミュニケーションを求めるか、それとも「推しにとって唯一無二の存在」としてのコミュニケーションを求めるか。これが一般的な意味の「ガチ恋」か否かの境界線な気がします。

(1対1で)特別な関係性になりたい、といった感情はふちりんさん(遠目でそっと見ています)のこの言葉に尽きるんじゃないでしょうか。

 あの娘と愛を交わしたくて

何とか覚えたタガログ語
 
ふっと話したその言葉の意味が 解りたい
ふっと話したその言葉の意味が 知りたい

 アイドルなどに推しがいるファンは、「タガログ語」を覚えたがるのです。推しの好きなものが知りたい。わかりたい。共通言語が欲しい。同じヴィジョンを見たい。

 

愛とは、互いに見つめ合うことではない。
ふたりが同じ方向を見つめることである。

 とサン・テグジュペリは言ったそうです。「タガログ語」は愛の始まりなのかもしれません。同じ方向を見つめながら「通じ合う」こと。

 

谷崎潤一郎漱石の小説の中で『それから』だけは恋愛小説であると評したようです。恋愛小説とは「互いの気持ちが通じ合う様子が書かれ」た小説なのだと。通じ合うことへの希求を哀切に歌う「ピロウトークタガログ語」は最高のアイドルへの片思いソングなのだと思います。

 

「ピロウトークタガログ語」が入ったアルバムはこちら。

 

代理母

代理母

 

 アイドルの「リアル」・偶像性や、谷崎の恋愛小説論(『刺青』恋愛小説論争)についてはこちらにインスパイアされました。むっちゃおもしろい。

 

文化現象としての恋愛とイデオロギー (成蹊大学人文叢書)

文化現象としての恋愛とイデオロギー (成蹊大学人文叢書)