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呼び起こす会話 音楽やアート

「私はお人形じゃない」/(G)I-DLE『Tomboy』『nxde』をよむ

去年の秋、(G)I-DLEの『nxde』(ヌードとよむ)が話題になった。とにかく一度MVを見て、としか言いようがないのだが、マリリン・モンローバンクシーへのオマージュをちりばめつつ、強烈な問題提議を呈した一曲だ。

(G)I-DLEジー・アイドル、韓国での呼び名は「アイドゥル」)は、2018年デビューのK-POPアイドルグループだ。韓国、タイ、中国、台湾出身のメンバーからなり、「女性が惚れる女性」という意味の「ガールクラッシュ*1」の系譜にあるグループと目されている。グループの最大の特徴は、女性アイドルには珍しい「自主制作ドル」である点だ。メンバーが作詞作曲を手掛ける。リーダー、ラップ担当のソヨンがプロデュースもし、リード曲の作詞作曲、コンセプト制作も行う。

 

『nxde』に限らず、(G)I-DLEは強いメッセージを発し続けてきた。そしてカムバックごとに発するコンセプトを読み解く際には、「自主制作ドル」であることを踏まえる必要がある。(G)I-DLEのステイトメントは、「自主制作ドル」という活動形態と不可分だ。

 

(G)I-DLEが、言い換えればリーダーのソヨンが一貫して表明し続けたステイトメント、それは「まなざしの拒否」だとわたしは考える。まず、最新作nxdeと前作Tomboyの連続性――両作に共通する手法から見ていきたい。

 

「Just me,I-dle」:『Tomboy』とまなざしの拒否、言葉の転覆

 

 

Tomboyの冒頭、ソヨンはこのように歌う。

 

Do you want a blond barbie doll?
It's not here, I'm not a doll

 

「典型的な女性性」「かわいらしさ」の象徴のような「ブロンドのバービー人形」はここにはない。そして「わたしはお人形じゃない」という歌詞は、アイドル業界において、コンセプトを体現する「お人形」ではないという意味にも受け取れる。MVの中でソヨンは(女性に対し何か悪事を働いたとほのめかされる)男性の人形をミキサーにふっかけてしまうし、(G)I-DLEのメンバーを模した人形たちはオーシャンズ8さながらのチームプレイでその男性を「始末」する。決して男性側にとって都合のいい「お人形」ではないと、MVでこれでもかと伝えてくる。

 

Tomboy』の歌詞において、革命的なのはこの一節だ。

 

Your mom raised you as a prince,But this is a queendom, right?

 

ここでは前世代の女性(=Your mom)が再生産した「王子様がお姫様を救い、そして王様になる」という構造を否定している。女性は「救われる側」客体であり、「救う側」主体は男性であるという構造だ。ある女性が結婚し、息子を育てる中で(おそらく諦めやためらいと共に)再生産したであろう家父長制への異議申し立てでもある。

 

Mnetでソヨンは、エンディングでカメラを割るパフォーマンスを見せている。言うまでもなく、アイドルは「まなざされる」職業だ。多くの人の希望や期待をもった視線を受け止める。(G)I-DLEは「かくあれ」というまなざしを全て否定する。そして(男性アイドル、女性アイドルといった)既存の枠組みも否定し、ただ「私は私である」と高らかに歌うのだ。

It's neither man nor woman
Just me I-dle.

 

既成の価値観の転覆、女性は、女性アイドルは「かくあれ」というまなざしへの拒否。(G)I-DLEはむしろまなざされることを利用し、聞き手を、まなざす者を挑発する。客体ではない、表現を発信する主体なのだという彼女たちの主張は、活動形態とあいまってさらに強固なメッセージ性を帯びる。

 

You get the song right, you'll get what I mean “Tomboy

 

ソヨンのインタビューを見ると、Tomboyという言葉の「少年のような女の子、おてんばな女の子」という意味の裏に、「女の子は淑やかであれ」という価値観がある点を彼女が読み取っていることがうかがえる*2。「誰かがつくった価値観の上に当てはまりたくない」彼女は「Tomboy」であることを選び取っている。

 

ネガティブなニュアンスがある「男の子のような」というTomboyという言葉を、ソヨンは言葉の裏にある偏見をあぶり出しその意味合いをを転覆させる。ある言葉を人々がネガティブに受け取るとき、そのように思う理由である人々の思い込みや偏見を鮮やかに示す。そしてこの手法は「nxde」ではより際立った形で発揮されている。

 

「Baby how do I look?」:『nxde』とまなざしの挑発

 

Why you think that 'bout nude
'Cause your view's so rude
Think outside the box
Then you'll like it

 

「なぜ「ヌード」という言葉をそのように考えるのか、それはあなたの見方が失礼だからだ」。もともと「ありのまま」という意味である「ヌード」という言葉を「いやらしいもの」と受け取るのは、センシティブなものとして見なすのはあなたの偏見に端を発するのだと、『nxde』では冒頭から示している。

 

まなざしの挑発もこの曲に見られる。彼女たちのグループ名(G)I-DLE(ヨジャ アイドゥル)が「女の子たち」という意味であるため、韓国語で「女の子たち ヌード」と検索すると彼女たちの作品が検索結果をジャックし、児童ポルノへの抗議ともなっている。「いやらしいものをお望みならそこにはない*3」とソヨンはラップし、最後シュファは「変態はあなたよ」と突き放す。

 

MVでソヨンはオークションで出品された像を模している。オークションの美術品は多くの人からまなざされ、値踏みされ、値付けられる存在だ。人々のまなざしを集めたうえで、自らを値付けようとした人々の横柄な価値観に彼女は冷や水を浴びせる。バンクシーのオマージュも、彼の人々のまなざしを集め、値付けようとする価値観を攪乱させた点に敬意を払ったと推察できる。

 

また、マリリン・モンローを「ブロンドのバービー人形」「頭のよくないかわいこちゃん」ではなく、「本の虫」で自主的にキャリアを切り開いた女性であると示している点にも、「まなざれる女性」に向けられる価値観を転換させようとする意図が読み取れる。

 

そして「私はどのように見える?」と挑発し「ありのままの私を着飾る」と歌う。ありのままの私、誰かのまなざしや値踏みや枠づけに関係なく、「私はただ私である」と。いうまでもなく、Tomboyの「Just me, I-dle」というメッセージとの連続性が見られる。

 

Baby how do I look, how do I look

 

ソヨンは「こうあるべき」「こういうものだ」といった、ステレオタイプや偏見とも呼べるまなざしに対し「否」と言い続けてきた。偏見や先例の拒否は、『Lion』の「意味のない礼儀はかみちぎる/偏見は私たちが壊す*4」といった歌詞からも明らかだ。そしてK-POPの産業構造にも彼女は同じ言葉を発する。彼女の姿勢が顕著にみられるのが、事務所の先輩グループCLCにあてて作詞作曲した『No』だ。


「私に一番似合うリップスティック」:CLC『No』と主体性

 

 

Red lip NO
Earrings NO
High heels NO
Handbag NO

 

赤いリップ、イヤリング、ハンドバッグ。さまざまな「男が女性にプレゼントするもの」にNOをつきつける。そんなたかが知れたものでなく、「もっと私に似合うものを持ってきて」。清純やセクシー、「そんな言葉一つじゃ私を表現できない」。清純、セクシー、それは他者(おそらく男性)が女性をまなざすときの「ありきたりな」言葉なのだ。そしてサビで高らかに「I love me I like it/내게 제일 어울릴 Lipstick(私に一番似合うリップスティック)*5」と歌う。私が好きなのは、誰かが「あなたはこういう人だから、こういうのが似合う」と差し出された「ありきたりな」ものではない、と。

 

MVにはCLCのメンバーたちが棺のなかに靴や鞄を入れ、皆で運ぶシーンが出てくる。『No』は「いわくつき」の曲で、もともとCLCが歌う予定だった『La Vie en Rose』がIZ*ONEに渡ったため、『No』を歌うことになった……という事情があった*6。棺を運んだ後の、バラを燃やすシーンが話題になったという。この歌詞の「Red lip」は暗にプロデューサーやコンポーザー、制作サイドが「こんなグループだから、こういうのが似合う」とアイドルに渡す曲、歌詞、コンセプト――を示していると読み取っても、穿ちすぎではないだろう*7

 

女性アイドルは楽曲やコンセプト、イメージを制作サイドから「与えられ」、キャッチコピーや魅力や特徴を「名づけられ」る存在である。「与えられた」イメージを消化し、「名づけられ」た役割を全うし、多くのまなざしを引きうける――。歌詞や(G)I-DLEの活動を通してソヨンが「否」というのは、女性アイドルが「受動」であることを強いられる、この構造ではないだろうか。そしてこの構造は、韓国の芸能界に限った話ではない。produce 101で「人からこうするよう言われたことをやるのが、私のなりたい「歌手」なんだろうか?」と思った彼女は*8、誰かから渡された言葉でなく「私の言葉」で「私は私である」と歌う。

 

(G)I-DLEの提示する「私は私である」「ありのままの私は美しい」「偏見を打ち壊す」というステイトメントは、ガールクラッシュでよく見られるものだが、彼女たちの場合は活動形態も相まってより強固なメッセージ性を帯びる。同時に、彼女たちの活動があくまでもショービジネスの中で行われていることも留意する必要がある。苛烈な競争が行われる中、あくまでも多くの顧客が支持し売り上げが見込めるためこの形態で活動がなされているのも留意すべき点であろう。彼女たちの「自主性」はあくまでも資本主義のシステムの中にある。そして「自主性」もショービジネスの中で商品になっていることも、企業のバックアップ体制が不十分な中、アイドルたちに多くの言葉や攻撃がふりかかっていることも無視できない。K-POPの産業構造やシステムが、実際に働くアイドルに大きな負担を強いているのはBTSが語った通りだ。

 

それでも彼女たちの、ただ「私は私である」と高らかに宣言する姿勢に私は勇気をもらう。一方的に彼女たちをまなざし、希望を見出す。もちろん「私がこうしたいからこうする」と歌う彼女たちにも、リリースにあたって障壁やそれにともなう調整があり、すべてが彼女たちが願う通りにはいかないであろうと思われる。けれども、ままならない現実があるからこそ――その姿が、彼女たちが手をつなぎ「美しい私のヌード」と歌う姿が、まぶしく見えるのだ。

 

*1:BLACKPINKなどが代表的なグループ。フェミニンなイメージでなく「強い女」のイメージで、歌詞も「savage」など強い言葉が多い。女性へのエンパワメントといった面でも支持を受けているため、フェミニズムとの関係性も深い。
ただしこの定義づけにおいて、異性愛主義と「女性は女性に厳しい」というステロタイプが前提とされている点に留意する必要がある。

*2:下記ツイート参照。 

七色🍑 on Twitter: "ソヨンさんは、「『トムボーイ』というタイトルは、チームの色をよく反映しているという考えから付けられたものだ」と説明する。「(G)IDLEの『G』は女の子の略で、私たちはいつもそれを取り除きたいと思っていました。」 https://t.co/5R3G4ivSXk" / Twitter

*3:以下、『nxde』の和訳はリンク先ブログを参考にしました。

Nxde / (G)I-DLE 歌詞・日本語訳 | よるむのけーぽ備忘録

*4:和訳はリンク先ブログを参考にしました。

LION / (G)I-DLE 歌詞 和訳 カナルビ | YOUR SOMEONE

*5:和訳はリンク先ブログを参考にしました。

【カナルビ 歌詞 和訳】씨엘씨 (CLC) シーエルシー No - hellokpop’s diary

*6:下記記事参照。 

CLC、IZ*ONEのデビュー曲に関する議論に初言及「レコーディングまで終えた曲だったが…」 - Kstyle

*7:ソヨンがMVのディレクションにどの程度携わっているかは不明だが。

*8:Studio Kizzleのインタビュー動画参照。 

아이에게 전소연 설명하기 | Studio Kizzle - YouTube 

地獄に落ちろ平沢進

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出典:MC松島 - Qダブシャイン - YouTube


  平沢進をリムってミュートして久しい。きっかけは何かは覚えていないけれど、コロナ禍以降だったと思う。コロナはじまりかけ(2020年3月)の時にはライブに行ったし、このような状況下でも、細心の注意を払って絶対健康で平沢進を見るぞ、という静かな熱気を感じ胸を打たれた。当時の感想はこんなんだった。

 

コヨーテの「賢く逃げていただく」にはしびれました。平沢さんのような考え方をする人、それを理解し支持する人と空間があるってのはほんと救いだし希望に思えます。

 

Looping Opositionの悪のメソッド!!!!もまさに今の、でもブレない平沢節ですね。この混沌で曲と詞が新たな輝きを得る。すべてよし、それでよし!と言い切る力強さ。しかし平沢さんがブレないからこそ歌詞が新たな光を帯びるのだ。

 

 コヨーテもLooping Oppositionも曲名だ。前者は平沢ソロ初期の曲。Looping OppositionはP-MODEL中期の曲。ちなみに言及している歌詞は原曲にはなく付け足されたところだ。


 このときはまだFC会員だった。実は一回FCを抜け、その後再入会した。一回抜けたのは専攻していた学問に対し平沢が疑義を示していたからだ。FC会報かFCイベのレポで、平沢がヲシテ文字について語っているのを知った。核p-modelの世界観で「情報を吟味すること」を高らかに歌う人間が「偽史」を信じ込み、あたかもそれを「正史」であるかのように語り、「きっとこれが「正史」とされないのは裏がある、信頼がおけない」と語るのに憤りを覚え、愕然とした。その後この人に高いリテラシーを求めてはいけないと悟った。本人が言う通り「しょせんミュージシャン」なのだからお門違いだと。

 

 他にもがっかりしたことは何度かある。それでも今まではどんなにがっかりしても、ライブを見ればやっぱり好きだと思ってしまうし、そう思える自信があった。平沢進は最高の「イカサマ師」で、その嘘で俺たちを騙してくれといつも願っていた。平沢進自身も自らのことを(音楽的技法の面でも、アティチュードとしても)「インチキ」と評していた。かつて足を運んだFCイベント*1で「なんもしていないとただのおじさんなんです」と語っていたことが忘れられない。

 もっと美しくだましてくれ。もっときれいに「嘘」を見せてくれ。


 どんなに平沢進の「底」が見えても、ステージ上の平沢は一流の詐欺師だった。だからライブに行くことはやめなかった。もちろん好きな曲を最高の環境で聞きたいという願いもある。あの歌声を聴きたいという思いもある(近年はかなりヒヤヒヤするが)。「なんもしていないとただのおじさん」な人間が、数千人を「騙し上げる」景色は壮観だった。騙されれば騙されるほど、ただの人間なんだと知れば知るほど、イカサマの快楽は増した。

 

 イカサマ師はイカサマに飲まれてしまった。「教祖じみている」という冗談めかした比喩表現は笑えないものになった(リプライ欄は見たことがないが、思想的にも同調しているファンは少なからずいるようだ)。トランプ以降の「ネタ」が「マジ」になってしまうインターネットそのものの流れ*2をベッタベタに踏襲している。そこには平沢お得意の「嘘」を「真」のように見せかけて「何マジになってるの」とズラすような鮮やかなイカサマの手つきはもうない。「こんな平沢進にマジになっちゃってどうするの」。かつて平沢進(ときに責任を回避するための逃げ道として「しょせんミュージシャンの言っていること」「自分の頭で考えろ」という言葉とセットで)使った含意は、いま平沢進にブーメランの形でそっくり投げ返されている。

 

 インターネットの「ネタ」が「マジ」になった世界に存在するのは、笑えないリアルだ。イカサマ師としても二流になってしまった平沢を見るのがつらい。もう平澤進*3には「職業:平沢進」は荷が重いのかもしれない。

 

 いらだったことは沢山あるが、決定打だったのは「私が差別者に見えるか?」というツイートだった。げんなりした。愕然とした。


 経緯は以下の通りだ。平沢進twitterの「言論統制」に危機感を覚え、parlerに避難所を開設した。保守派、トランプ支持者に人気の「検閲のない」SNS*4。海外ファンの一部が、丁寧な表現でparlerはやめてほしい、というリプライを飛ばした。リプライを飛ばしたファンの中には、LGBTQやアライの人もいた。平沢進は過去作品でSP-2MtFトランス女性のこと)を起用し彼女たちとの付き合いも深かったため、その点に感銘を受けたLGBTQのファンも存在した。彼/彼女らは、トランス差別言説が跋扈し放置されているparlerに、アカウントを作ること(≒メディアの存在を肯定的に捉えること)を非常に危惧していた。そのようなリプライを受けてのツイートが(見返すだけでも胃液がむかむかわいてくるのだが)、これだ*5

 


 一連のツイートの流れは下記参照。既存メディアに疑義を呈する文脈からの発言なのがわかる。

Susumu Hirasawa(@hirasawa)/2020年11月26日 - Twilog

 

 その後平沢はリプライを飛ばした海外ファンをブロックする。以降、批判的なリプライを飛ばしたファンをブロックするようになる。この時、心を痛めたり憤りをあらわにする海外ファンや、ファンダムの動揺や分裂を見ていて、いたたまれない気持ちになった*6

 

 自らの持ちうる暴力性に無自覚で、よく差別主義者でないことをファンに認めさせるような言動ができるなと思った。自分が「力を持ちうるものだ」「人に力を及ぼしうるから、気を付けなくてはいけない」と意識するのはつらい。一歩間違えれば自身よりも立場が弱いとされる人を、傷つけうる力を持っているのだと意識するのは、窮屈な思いも時に呼び起こす(部下にパワハラしないよう気を遣う上司とか)。衆目の視線が注がれる有名人の場合、心労やプレッシャーはいかばかりかと思う。それでも「私が差別主義者に見えるか?(いや、違うだろう、そういうもんだとあなた方はわかっているだろう)」と画面の向こうのファンを尋問し、異議を唱えるとブロックするという一連の流れはグロテスクに見えた*7。自分がそのような物言いをすることが、いったいどのような「力」を及ぼしうるのか無自覚な人間のことを、画面の向こうの心を痛めリプライを飛ばした人間を慮れない人間のことを、なぜ差別主義者でないと呼べるのか?*8

 

 基本的に平沢進のスタンスは「あとはオマエタチで考えなさい」である。「自分の頭で考えなさい」「こうしなさい、と強制はしないし平沢のファンだから平沢に右向け右するのは愚か者だ。わたくしはこう思っています」だ。ちなみに「わたくしはこう思っています」を直接的に言わず、隠喩をまぶして語る。だから「あなたに強制はしていないだろう」というロジックが成り立ち無責任でいられる。隠喩にまみれているので、今まで絶妙に「見つからずに」済んだ(昔からオカルト/陰謀論的なものに親しんでいた人ではあるが、最近は度を越えてきた)。「しょせんミュージシャンの言うことです」ということでどこまでも無責任でいられる*9。平沢のこのロジックは、どこか陰謀論者の「与えられた情報を鵜吞みにせず、自分の頭で考えているから正しい」という理論を彷彿とさせる*10

 

 平沢進は詐欺師だ。それも一流の詐欺師でありイカサマ師であり人をだます天才だ。これを今まで賛辞として書いてきた。かつての平沢は言葉の選び方や絶妙な「逃げ」具合が非常に上手く、その自己プロデュース能力には舌を巻いた。昔行ったFCイベントのレポを読み返して、この人の質問の返し方や言葉の選び方に「平沢進」性を見たのだと思い出した。最近の平沢のふるまいやツイートを横目で見ていると、平沢進をやることが格段に下手くそになってしまったとしか思えない。もはや平沢進劣化コピーのような平沢進を見ている。いつから二流の偶像になってしまったのだろう。叶姉妹を見習って、美香さんと恭子さんの爪の垢(なさそうだが)を煎じて飲んでほしい。

 

 かつてわたしは平沢の「オルタナティブである」姿勢から光を見出していた。平沢進が「生きづらい」人からの支持を得るのは、彼が「世間一般から理解を得られず、偏見にもさらされたが、自らの道を貫き成功した」からだろう。音楽一本で飯を食え、ファンも多くいて、自分のやりたいことや好きな世界観を表現できる。いちはやくコンピューターやインターネットに目を付け、既存のしがらみや常識にとらわれず「好きなことで、生きていく」クリエイターの先駆だった平沢は「あなたはあなたのままでいい」というメッセージを発し続けていた。ファンがおのおの平沢の軌跡から暗に受け取っていたメッセージを平沢は次第に表に発信するようになってきた。そして既存の常識やマス、マジョリティ、社会体制が、あなたの自信を失うように仕向けているのだと。

 

 平沢進の奇想天外な柔軟な発想や、「オルタナティブ性」はこの「既存のもの、主流派のもの、世間一般で当たり前、オーソリティがあるもの」への疑義と表裏一体である。そして後者は陰謀論との親和性が高く、今ではぴっとりとくっついてしまった。もうここまで分かちがたくなってしまったら、表面にあった平沢の固有性もそのうち(もはやすでに)ありきたりな物語に吞まれていくのかもしれない。ティーンの頃に彼の「オルタナティブ性」に救われた者としては、何とも言えず悲しい。

 

 今まではどんなに発言でモヤモヤしても、ライブを見れば手のひらを返せる自信があった。その自信すらあやふやになっているのが、悲しい。倫理観を批判しているのに金を落とすだなんて、あまりよくない消費者だなという気持ちもある。FCに入らないのがせめてもの抵抗だ。腐れ縁のようなものなのかもしれない。心にあるのは地獄に落ちるまで創作を続けてくれ、という気持ちだ。地獄行きを共犯者として見届けてやる、だから死んでも創作はやめるな、と。倫理的によろしくない創作をしそうだとわかっていてもそう思うのはとても罰当たりで罪作りなことだと思う。まったく正しくない消費者だと思う。それでも行く末を見届けたい理由は、正直よくわからない。この先うっすらと追う気すら失せて、まったく気持ちを割かなくなるかもしれないが。

 

 フィッシュマンズの映画を見たときに、伝説のまま若く死ぬのと、老害となった姿を見せて長生きするの、どちらがいいのだろうとぼんやりと考えた。若くして突然の死を迎えた佐藤伸二について、遺されたメンバーがただただ未だに心の整理がつけられない、という表情で語る姿を見て、老醜をさらしつつもクリエイターが創作する姿を追えるのは、まだ幸福なことなのではないかと思えてきたのだ。

 

 かつて平沢はFCイベで「もっと大きい会場でやるのが目標」と語っていた。ミュージシャンとしての具体的な野心があるんだな、とその時は驚き応援したいと思った。ここ最近のツイートや情勢から、チケット譲渡や参加取りやめのツイートがタイムラインに流れてくる。空席がどれほど生まれるかはわからないが、客席をどんな気持ちで私は見るのだろうか。平沢は見るのだろうか。いっそ皮肉な光景を見せてやりたい、と思いながらライブの日を待っている。

*1:そのときの記録は下記参照。

循環カフェ追加公演 3/16夜の部 トークレポ - Privatter

*2:ダークウェブ・アンダーグラウンド』の補論2が参考になる。

*3:本名はこれらしい。噂レベルに過ぎないが。

*4:サイバー空間に対する平沢の思想はリバタリアニズム自由至上主義)と言っていいと思える。

*5:平沢のLGBTQに関する発言は(本人の性自認性的志向は知りようがないが)I have a black friends 論法に近いものを感じる。そのような発言がなぜ「いっけんLGBTQに理解があるようで実のところ無理解」なのかは下記書籍が詳しい。『LGBTとハラスメント』『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」

*6:わたしはトランス差別に反対します。

*7:有名人はSNSブロックするなとは思わない。中には心無いクソリプもたくさんあるだろうし、すべての「お客様」を神様扱いしない自由が認められていると思う。

*8:反差別であるというのは、こういうことなんじゃないかと個人的に思うツイートを置いておく。

コトノネ on Twitter: "【今日のことば】差別と闘うのって「総力戦」だと思うんです。前面に出て声を張り上げる人が必要です。傷ついた人に寄り添う人も必要です。何が起こったのかを記録し続ける人が必要で、起こっている差別に加担しないでいてくれる人も必要です。(ぶっちゃけインタビュー)

*9:まだスタンスを明確にしてハッキリ物を言っているぶん、腐ってもラッパーなKダブシャインのほうがマシに思える。

*10:ちなみにサイゾーの2021年7・8月合併号にはなぜミュージシャンがQアノン化するのかを特集した記事があり参考になる。平沢の隣にKダブがいる世界。ちなみに記事でコメントを寄せている清義明さんの、2chとQアノンのつながりを追ったweb記事は面白い。各回冒頭2pは無料で読める。275円払えば全て読めるが、この情報量と面白さを鑑みれば安いと思う。平沢のサイバーリバタリアニズム、自己責任論を考えるときの一助となるかもしれない。