父を断ち切る音――湯遊ワンダーランド3巻
かなり前の話になるが、湯遊ワンダーランドのイベントに行った。日比谷コテージで、作者のまんしゅうきつこさん(現:まんきつ)と書店員の新井見江香さんがゆるゆるトークするものだった。
前日に日比谷コテージに電話。最近はこういう電話やチケットを手に入れる踏ん切りがどんどんつかなくなっている。逡巡したすえ、オシ、行くぞと意を決して電話した*1。日比谷駅でちょっと右往左往したのち、コテージのトイレで化粧を直す。最近はなんでもギリギリに出るから、顔に人権が塗布されていない状態(最低限の化粧すらしていない)状態で目的地まで行くことが多い。いかんいかん。ここにいる人みんな湯遊の民かしらん。
コテージははこぎれいで遊び心のある本屋で、有隣堂を文化系女子向けにした感じだなぁと思う*2。電話してる男性がいて、あ、この人が担当編集の高石さんかしらと思う。実は高石さんのファンで、生高石さんをひとめ見たくて、県境を超え日比谷までやってきた(まぁ通勤でいつも超えているのだが)。会社のトイレで漫画のためアンダーヘアーをそる男。イカれている。最高だ。twitterで見られる言語センス、吐露されるこのひとの生きづらさ(勝手に言ってしまってすみません)、そして担当書籍、すごく信頼できるな……と思う。どの本もこの人だからこそ掬えた、感受性の塊だなぁと思う。(受付あっちっぽいけど先にこっちでいいんだよな……)とレジで整理券と単行本を手に入れる。受付に向かうと「サイン会に参加される方は、整理券の裏にお名前を書いてください」と言われる。そういえばサイン会、初めてだった。ゴルフ場とかでもらう簡易鉛筆で、本名を所在なさげに書いた。
トークショーは新井さんとまんきつさんのゆる~いもので、まんきつさんが筋少のファンと聞きものすごく信頼できるなと感じた。たまの大ファンで、たまのライブは泣いてる人がいる、宗教性が高いと聞きそういえばフォロワーが最近知久さんのライブで泣いたっつってたなと思いだした。
サイン会までの間、最新刊をパラパラ読む。相変わらずのおもしろさ(とくにガンジーの回とナイピッチの回が好き、まんきつさんの描く大谷翔平のヘタウマ似てる感はなんなのだろう)とシュールさが炸裂している。しかし後半、徐々に物語はシリアスに、そしてまんきつさんをサウナに向かわせる「原因」との対峙へ向かっていく。
父を断ち切る音。きっとまんきつさんにとってはそれがサウナや、「まんしゅうきつこ」という自虐的な看板を変えることだったのだろう。しかしどうあがいても親子で、否が応でも血のつながりや共有した時間の跡を拭い去ることはできない。物語の後半、弟を見て「父親に似てくるのがとてもつらい」とこぼす。サウナに行き「父」から遠く離れても、事務所に戻ると弟に上から目線で色々言われる。断ち切ることができない。そこでまんきつさんが下した決断は「父」を断ち切ることなのだった。
自己嫌悪や生きづらさ、それらの淵源が「父」なるものである人は、きっと少なくないだろう。親子と言うのは、ほんとうに嫌な所が似るなと日々ため息をつく日々だ。参加券の裏に書いた本名を消し、twitterの名前にした。与えられた名前でなく、父と同じ苗字の名前でなく、自分で自分に名付けた名前。きっとその方がいいと思った。
まんきつさんは泣いていた。わたしの数人前の方が熱く感想を語っていた。一字一句覚えている、辛い時よんで励まされたと言っていたと思う。人が感情を吐露している風景を乱暴にくくってしまうのはためらわれるけど、エモい風景だった。こういう仕事ができたらいいなと思った。この作品がこういう形で本にならなければ、きっと出会わなかった二人だろうし無い風景だろうなと感じた。こんな風に作者と読み手を動かせる、ひとの心を動かせる仕事が出来たら幸せだろうな。この光景はきっと今後の私の羅針盤になると直感した。今後迷走したら、絶対にこの景色を思い出そうと。
本日HMV&BOOKS日比谷コテージで『湯遊ワンダーランド③』完結記念イベントが開催された。ブログに本の感想を書いてくれた読者に会えてうれしかった。サイン会で彼女と対面したまんしゅうさんは感極まり泣いていた。感想でつながる関係っていいな思う。お越しくださった皆様ありがとうございました。 pic.twitter.com/oHNxfygHq4
— 追っかけ漏れ太郎(編集者) (@takaishimasita) June 2, 2019
まんきつさんはこんなんですみませんと言いながらもスルスルと絵を描いていてすげーと思った。ガンジー超おもしろかったですと伝えると笑ってくれた。高石さんにひとこといつもtwitter見てます、とお伝え出来てよかった。もっと気持ち悪くファンです!と言っても良かったけどそれはそれでなんだか申し訳ない気がする。ちなみに高石さんが会社をバックレる回も、すごく好きだ。扶桑社、心広いな。
仕事をばっくれた結果、サウナに救われた話①#湯遊ワンダーランド pic.twitter.com/SZfOBRshqW
— 湯遊ワンダーランド@最終巻・第3巻発売中! (@yuyuwonderland) June 17, 2019
血は簡単に切れないし、どうしても近しいからこそ断ち切ることは難しい。父を断ち切る音はどんな楽器で、どんな音を奏でるのだろうか。この立ち切れ難さを抱いている人はきっと一人じゃない。そう知っただけでも、ひとつその音に近づいた気がする。
ふだん着の選挙
期日前投票に行った。以前は投票日に行っていたが、今回は一週間前に投票した。前の知事選では意識していたはずが、肝心の投票日にすっかり忘れてしまった。その反省から忘れないうちに、暇なときにやっておこうと投票した。
過去のわたしだったら、忙しくも投票日に行っていたと思う。それもギリギリの時間に。なんとなく、大事なことだから時間の許す限り考えた方がいいよね、という意識があった*1。と言ってもそりゃ自分と100%同調できる人間がいないように、100%信頼できる候補者など一人もいないのだけれど。立候補して、政治家になろうとうする人間は*2違うジャンルの人間だと思う。同じ教室にいても、絶対仲良くなれない人たち(だって今まで、何かを積極的に仕切るような人たちとの間にいい思い出があるだろうか?)だ。それでも、ちょっとでもマシな異星人を選ばないと、もっと仲良くなれない仕切り屋が幅を利かせて、もっと居心地の悪い空気を作るのだろうなと思い、投票する。
消去法の選択だから、どうせ書く名前はそう変わらない。選挙期間に大きいスキャンダルがあれば別だが、所詮は消極的な選択だ。それでも「まだこっちの方が、マシです」「わたし、ここにいます」と言うために行く。出席確認でけだるく「はい」と答えるように。いるのに欠席だと思われて、貰える出席点を落とすのは損だ。もう気持ちが固まってしまったのなら、とっとと出席してしまった方がマシだ。
投票日というのは、一つの「特別な日」と見なされていると思う。国民/都道府県民/市民全員が参加しなくてはいけない日。運命の審判が下される日。TVは特別番組を深夜まで組む日。多くの人は、投票日をゴールと定めてカウントダウンをする。でも別に、投票日だけが投票できる日じゃないし、特別な日じゃない。期日前投票は2週間ほどやっている。むしろ投票日を神聖視するような空気、選挙に行くことは重要だと言わんばかりの空気、責任あることだから熟慮しなくてはいけないという空気が――人々を投票所から遠ざけているような気がするのだ。そんな重い責任、重要な判断、しんどいです。選択して未来を動かすなんて、荷が重いです。何かして、何か悪くなってしまうなら、そして本意に100%沿うものがないなら、なにもしません。だって、それは、わたしの本意じゃないから。――きっとそのような気がするのだ。もちろん、自分にとって「どれがマシ」なのか、そもそも自分はなにを求めているのかが茫漠としている人もたくさんいるのだろうけれど、かれらに向けたサービスやフローチャートは探せばたくさんあるから深入りはしない。
「若者の低い投票率」といった話を聞くたびに、解決策として挙げられるのは投票日・所の認知や、どの政党が自分の近いのかといった診断テストなどだ。一部の人間には効果を発揮するだろう。でも、それらは選挙(日)の神聖視を強めているだけに思える。神聖視を強めれば強めるほど、畏れおののいて足が遠ざかるといったパラドックスが生じるように思えてならない。おめかしの選挙、じゃなくて普段着の選挙でいいのだと思う。けだるく「はい」というような選挙。まだコイツの方がマシと人が読める字で投票用紙に書く選挙。もらえる出席点はもらっておいた方がいい。誰にも根本ではなびかないけど、「わたし、ここにいるんだけど」って言えば、教室の仕切り屋(予備軍)どももちょっとはわたしらに気を使ってくれるはずだ、きっと。