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呼び起こす会話 音楽やアート

盤上の見えない血

 深夜2時のタイムラインにのぼったツイートは目を疑うものだった。画面の前で一言、マジかよとつぶやいたのち、神様のいたずらに笑った。こんなことがあるのかよ。信じられない事態を前にして、他人事ながら笑うことしかできなかった。決して嘲笑ではない。将棋連盟中継アプリを開き420手目の盤面を見た。言葉が出なかった。なりふり構わぬほどの執念。多くの駒が赤く「成り」、空白の多い盤上で、王将は互いに元いた場所から遠く離れていた。2月27日付竜王戦6組ランキング戦、牧野光則五段 - 中尾敏之五段 戦。戦後最長の420手を記録したこの対局は持将棋(=引き分け)成立となり、30分の休憩を挟み、翌2月28日 午前2時14分。指し直し局が始まった。

 

 将棋指しは「美意識」を持っている。「美しい棋譜を残さなくては」という美意識だ。若き日の羽生善治がいうように将棋は「ゲームに過ぎない」のだが*1、芸術的な側面を有しているのもまた事実である。ひふみんこと加藤一二三は「自らの棋譜は芸術作品だ」と言って憚らないし、タイトルホルダーは、称号にふさわしい「美しい」将棋を指さねばという重責に苛まれることもある*2。最短距離の美しい手順。負けを悟ったら潔く「投げる」こと。彼らの審美眼や美意識はわからないが、棋で対話しながら「美しい」作品を作っていくことは、我々の日常から大きく離れており、魅力的に映る。 

 

 棋譜が審美眼を究めた強者たちによる「作品」だから新聞社は棋譜を買い取り、平等な対局料を払う。真剣勝負でないと生まれない、残酷な芸術だ。

 

 「粘る」ことを美しくないと見る人もいる。諦めない手は往生際が悪いと。しかし、どうして無駄と断じられる?何が起こるかがわからないのが盤上であるのに。勝負への執念は棋譜に「美しさ」を超えた彩りを加える。加藤一二三が言うように「人の心を打つものが芸術」ならそれもまた芸術なのだ。かつて、電王戦で塚田泰明九段が持将棋に持ち込んだ時、解説人は困惑の表情を浮かべていたという。棋士のオーセンティックな「美意識」からは反するからだ。それでもここで負けて、人間チームを負けにしたくないと語った彼の姿は多くの人の心を打った。

 

 中尾五段にとってこの一局は負けられない一局だった。勝てば現役続行に大きく近づき、負ければ引退の可能性がぐっと高くなる状況に立たされていた。正確に対処され、極限まで追い込まれた彼を支えたものは何だったのだろうか。指し続けていたいという思いだったのだろうか。それは本人しか分からない。

 

 指し直し局は100手目をもって、午前4時50分、牧野五段の勝利に終わった。いかなる状況でも勝者と敗者が生まれるのが勝負のむごいところだ。しかしそれゆえ勝負に惹かれてしまうのもまた事実だ。

 

 加藤一二三の特番で、先崎学九段はこう語った*3 。

 

1対1で檻の中に入れられた人間が戦うっていうことなんですよね


「相手は当たり前ですけど、必死に勝とうとするから、その必死にやってくる相手に対してそれ以上の気持ちを持ってないと、崩れちゃうんです。何かが。崩れたら負けなんです。だから常に気が張ってる、心が張ってる。耐えられなくなるんです。楽にやったら楽ですから。」


「だからそういう意味でどっかでみんなあるんだろうと思います。バランスを取る意味での、何かが」

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 将棋にかかわらず、勝負事というのはむごたらしいものだ。極限状態に人を置き、全てを賭けさせ最高の勝負を見る。勝負を娯楽として消費する私たちは、奴隷のデスマッチを見る古の人々とそう変わっていないのではないかと思える。背負うものが多きれば大きいほど、勝負は熱くなり、現実はフィクションを超える。観客は熱狂する。プレイヤーも戦えて本望だろうが、時にその残酷さにわたしは息を呑んでしまう。そして憎らしいほど極限を見せる現実に、熱狂する自分にも。

 

「盤上には棋士たちの見えない血が流れているんです」

 
 漢の中の漢、深浦康市九段はかつてそう語った。悔恨、無念、失望……。様々なものを背負い勝利を掴もうとするかれら。背負うことや思うことは人それぞれだろうが「勝ち」と「負け」しかない世界は血も涙もなく非情だ。黒い漆で区切られた81マスの宇宙には今日も静かに傷口の跡が残る。時に現実に熱狂しながら、つわものたちの行く末を、祈る。

*1:この言葉は将棋はゲームに過ぎないから人生経験などは関係がないという、研究重視な現代将棋の幕開けを象徴する言葉。

*2:フィクションだが、『りゅうおうのおしごと!』の主人公、九頭竜八一は竜王にふさわしい将棋を指さなくては、という意識からスランプに陥る

 

 

*3:ちなみに番組ではこの後スランプに陥った加藤九段を救ったキリスト教信仰についてのVが流れる。