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呼び起こす会話 音楽やアート

発話の筋肉

 働いてから、なかなか時間が取れない。労働のための準備や何らかのインプット、なにより寝たりぼんやりして心身を休める時間がこんなにいるのかと思い知らされる。こうして何かものぐるおしさに駆られて駄文を連ねることも、インターネットの片隅で駄文をポロリと露出させることも、精神を休めるはずなのだけど。


 どんどんブログを書く力が衰えていったなと思う。ものを書く筋力が使わずにやせ細っていき、ヘルパーさんの介護で何とか立つ高齢者のようになりつつある。以前ある人とブログが続かないという話をした。一度力作を作ってしまうと次もそれを作らなくてはと力んでしまってなかなか書けなくなる。ああそうだよなぁと思った。注目度もなく、インターネットの片隅でこそこそぶつぶつうめいているだけのこのブログですら、いるかいないか分からない読者の期待を考えて頭を抱えているのだ。最初、自分がやりたいから開設したはずなのに。


 そうして徐々に飼いならされていくのだろうかと思う。自分の内なる言葉を宛てる相手が見つからず、SNSやブログで内輪とその少し外側に向けて書いてきた。徐々に内なる言葉は枯れてきて、あーそっか、そうですか、はい。で終わりつつある。RTで大体事足りて、違和感すら人の感覚に委ねつつある。発話は会社の中での規範をいつのまにか内面化する。あれ?わたしの発話は?わたしの言葉の筋肉は?自らの言葉をさわる。以前とは違う所に肉が付き、肉がやせ、違う形状をしている。言葉は変わる。発話は変わる。わたしは変わる。変わることを恐れるつもりはない。いまから逃避するために今までもこれからも言葉を連ねる。問題は逃避する脚力が衰えていることだ。


 具体的に何かがしんどいとか、何かがつらいとか、そういうものは昔よりも減った。恵まれている方だとは思うし、昔よりも自分の扱い方は分かっている。ただレベルが上がると遭遇するハードルも上がり、専門性も際立つのでそういうつらさはある。漠然とした生活、社会、暇という余白が一気に減った日々。狭くなった地面では逃げる基礎練習すらままならない。筋肉が落ちる、わたしは変わる、でも腹の奥にある内なる言葉ーー言いようのない違和感やものぐるおしさはくすぶっていて、筋肉を動かし感情の残りカスを形にしないと、消化不良の発酵した感情の腐臭を漂わせて死ぬ気がする。


 少ない足場で足踏みする、踏み台運動のような言葉の軌跡だけれども、これは発生練習であり、リハビリであり、逃避への狼煙なのだーー死なないための、いまを捨てるための、飼いならされないための、内なる言葉を腐らせないための。