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神話と現実のあいだ――「ボヘミアン・ラプソディ」感想

 ボヘミアン・ラプソディを見た。ドルビーアトモスで見た。まるでライブハウスにいるような音響だった。

 

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 フレディ・マーキュリー及びQueenについては多くのことは知らなかった。TVで流れる有名な曲、チョビ髭タンクトップ、晩年男性のパートナーと錦鯉を飼っていたこと。そんな私にとって彼の「生涯」と曲のバックグラウンドを知ることは新鮮だった。見ていて飽きなかったし、ライブシーンは鳥肌が立った。途中までフレディが鎮座ドープネスに見えたけど。


 見終わった後のツイートでは、フレディと叫んでばかりだった。庄司がミキティーと叫ぶがごとくフレディーとしか叫んでいなかった。フレディを抱きしめたいなど間抜けなことを言っていた。けれども時間がたつにつれ、この思いに罪悪感も覚えた。

 

  「ボ・ラプ」は伝記映画として紹介されている。が、なにかの記事で「これはフレディの精神世界を描いた作品だ」という制作側のコメントを見た*1。このコメントでハンブルクバレエの「ニジンスキー」を私は思い出した。

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 振付家ジョン・ノイマイヤーは「ニジンスキー」についてこれは伝記ではなく、彼の精神的世界を描いた作品だと語っている。フレディとニジンスキーを結びつけるのは突飛な思い付きだと思ったが、そうでもなさそうだった。女装MVと名高いI want to break freeでフレディはニジンスキーの「牧神」に扮している。「牧神の午後」も官能的な内容でセンセーショナルな話題を引き起こしたが、break freeのMVも変態的だとして放映禁止になったのは皮肉な話だ。

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 ニジンスキーにはディアギレフというプロデューサーがいた。バレエ・リュスの興行師であった彼は、もともと音楽を学んでいたが裏方に回った。ディアギレフとニジンスキーは恋愛関係にあったが、ニジンスキーが公演に出てない間結婚したことで二人は破局を迎える。フレディとポールを見ながらニジンスキーとディアギレフを思い出していた。脇道にそれるが、ポールがフレディにキスするシーン、男が男に欲情する目が生々しかった。

 

 「ボ・ラプ」を見た後、フレディを「同性愛者」だの「バイセクシャル」だの言うのは気が引ける。映画作中のフレディは自らの性的嗜好、愛の形に何と名前を付けたらいいのか戸惑っていたからだ。メアリーのことを愛している、でも同性を好きになる気持ちも止められない。「バイかもしれない」と言うと「あなたゲイよ」と泣きながら言われる。ポールから「本当の自分を君は知らない、メアリーのことは忘れろ」と言われてもメアリーの愛を無碍にされるのは許せなかった。

 

 前例の少ない*2愛と性を自分に見つけたフレディは戸惑う。バンドの仲間たちは家庭を持ち、ポピュラーな愛の形に居場所を見出している。夕暮れ時を過ぎても砂場に留まる家出少年フレディはにぎやかで孤独な夜遊びに耽る。

 

 退廃しきった生活を送るフレディ。彼の孤独が作中では強調される。家族との不和、セクシャリティの戸惑い、そしてスタートしての孤独が重なっている。葛藤を乗り越えたフレディはQueenという「家族」に戻り、生家とも和解し、情緒面でもジム・ハットンと言う居場所を見つける。愛やセクシャリティ、自らの在り方に苦悩したフレディが自らの生き方、自分を見つける成長物語として完結してる。

 

 フレディを抱きしめたい、と思うのは彼の不安定さに依る。同時に罪悪感もここから来ている。私たちが知る華やかなステージの上のフレディに対し、最初出てくるのはどこかおどおどした青年ファルーク・バルサラだ。バンドが軌道に乗るにつれ、徐々にビッグマウスに我が儘になっていくがオフステージでは相変わらず不安を抱えた人間なのだ。

 

 華やかになればなるほど、彼の孤独の影は深くなる。メアリーとランプで会話をしようとしても徐々にすれ違う。彼の孤独はそんな単純なものだったのだろうかとも思う。コンプレックスを曲に昇華させるも、ステージの上の自分が一人歩きし、本当の自分を愛してくれる人はどこにもいない。


 映画のライブシーンを見ると、華やかな舞台、そして観客に訴えかけるフレディのパフォーマンスに惹かれる。この映画も実際のQueenのパフォーマンスも華やかな神話だ。彼の人生をテーマを有した物語として再構築したこの映画も。

 

 ライブ・エイドのシーンを見るとこの「神話」にひれ伏したくなる気持ちが湧く。当時この物語を体感したかったという思いだ。そして過去は映画により物語れまた神話となっていく。映画に感動する私は、フレディの神話に胸を打たれいている。このことにどうしようもない申し訳なさを覚える。


 現実・史実とフィクションの差をとやかく言うのは本論からそれるので触れない。ただ作中のフレディはステージ上の華やかな自分とステージを降りた自分との差に苦悩しているように見受けられた。そんな彼の「神話」を愛することに一抹の罪悪感を覚える。


 苦悩を音楽にかえるのは彼にとっての天職だったのだろう。ピアノの前で自らを痛めつけるような退廃した生活を送るフレディを見るのは辛かった。誰かにとっての救世主ではあるだろう、けれども自らのことは救えない。奇矯な衣装・動きはカルトな人気を誇りセックス・シンボルであったろうけど自らの性と愛のあり方に苦悩した。彼の苦悩は常人である私には計り識ることはできないが、誰も彼もが彼について語るほど神格化されてしまったことに端を発するのではないか――そしてその片棒を担いでいるような気にもなるのだ。


 彼を自分らしく生きることのシンボルとして、あるいはセックスシンボルとして、ロックスターとして語ることもどこか気が引ける。しかし彼の魅力は自らをシンボルにしてしまう――神話を演じてしまうところにあるのだ。その役割を喜んで引き受けたであろうし、そのことで苦しくなったのかもしれない。


 多面的で時にいびつで美しい彼は、様々な衣装や音楽の中で神話を演じきった。どんな言葉を尽くしても、彼の外殻しか掴めないような気がして、野暮に思える。


 ニジンスキーは不倫と言う形で妻の裏切りにも遭い、最後は精神を病む見舞いに訪れたダンサーが彼の踊りを踊ると、記憶がよみがえったのか跳んだという。「ニジンスキー最後の跳躍」と呼ばれるその写真を展覧会で見たが、えも言えぬ思いに駆られた。自らを切るような営みであったろうが、最後まで創作に向き合えたフレディは幸運だったのかもしれない。

*1:元ソースが見当たらないため思い違いかもしれない、ブライアン・メイが「これはアート作品だ」と語っている記事は見た

*2:情報源が今ほどない時代なら、ほぼ無いに等しい