404 state

呼び起こす会話 音楽やアート

人と同期できない

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駅を歩くと、いつも人にぶつかりそうになる。大して人が多いところでなくてもぶつかりそうになって、互いに止まって、少し頭をさげて、手を前に出してここ通りまーすと歩く。へんな間が流れるたび申し訳なさに襲われる。同時にぞろぞろと流れる人の流れを見てなぜみな滞りなく歩めるのだろうと思う。

 

中学時代、公民の先生が「改札をうまく抜けられなかったら抜けそうな人の後ろをつければいい」と言っていたのを実践しているが、トロい私は鋭敏さや効率的な動線からどんどん離れていく。平均的な人間の平均的な思考回路から少し離れて、ショートしたり迂回しているのだろうなと思う。無茶苦茶なルートを提示する乗り換え検索のような私にみな白い目を向ける。スーツや流行のファッションに身を包んだ人が3番線のプラットホームを目指して歩むとき、私の頭は口当たりの良いお菓子みたいな考え事をしてふわふわ歩いている。みなが重いステップを踏む中、私は変拍子のステップを我関せずと踏んで不協和音を生む。耳にノイズが入った瞬間、私は重いステップが空間を支配していたことに気づいて、申し訳なくなる。変拍子を無理やり重いステップにしようとするのだがそれでも1テンポズレているような気がする。

 

自分の思考回路が人と違うのだなぁと感じることがよくある。バイト先で早とちりしたり、非効率的なことそうだと分かりながらやっていたり。何かしらミスするときは「ああ、このやり方ダメなんだろうな」と思いつつも体はなぜかそこに流れていく。切迫感が抜け、失敗してようやく重いステップに気づく。私の人生はそれの繰り返しのような気がする。

 

電子音楽で「同期」という考え方がある。違う楽器・機材をつなげて一つのメロディを作る。その時テンポを合わせるそうだ。私というシーケンスはこれから先、誰とも同期しないのだろうかという思いが時たま襲う。私が持つリズムはきっとこれから誰の音楽とも合わないんじゃないか。不協和音ばっかなんじゃないか。人とぶつかりそうになるたび私はずっと誰とも同期できずに生きていくのだろうかと思う。人と人は、心と体が分かれてる限り分かり合えないというのが持論なのだけど、誰とも調和せず、理解されず、愛されず、孤独に死ぬのかなぁと思う。それは恋人がいるとか、家族がいるとか目に見える事実や形態のことではない。集団の中で上澄みだけをすすってうまく生きてるつもりでも、根本にある私のリズムでステップを踏む人も、セッションをする人も誰もおらず、ただ自分のための音楽や自分のためのステップを一人で踏み続けるのだろうかと思う。

 

自意識過剰な被害妄想や、特別だと思いたい気持ちが暴走しているのは確かだし認める。そう思って自分を保ちたいところもどこかにあるのだろう。でも人にぶつかるたび、誰とも交わらないのかなと思う。わがままに生きてしまった。「社会化」というのは多くの人と同期しやすいように変拍子を削っていくことで、自分の変拍子が好きだった私はそれに反抗してきた。相変わらず変拍子は厄介だが好きだからこれからも抗うつもりではある。それでも私は無様な自慰みたいなステップを踏み続けるのだろうかと思う。セッションがしたい。けれど変拍子でいたい。わがままで青臭くてどうしようもないけど、身もふたもなく言うと社会化されない自分のままで愛されたいし人と交わりたい、同期してみたい、ただそれだけのことなのだ。

 

駄々っ子は今日も東京のどこかで大人とぶつかる。モラトリアムの戯言も今のうちだろう。本当はずっとそれを言える立場にいたいのだが、変拍子を無理やり重いステップに変えるから、許してほしい。