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呼び起こす会話 音楽やアート

ふだん着の選挙


 期日前投票に行った。以前は投票日に行っていたが、今回は一週間前に投票した。前の知事選では意識していたはずが、肝心の投票日にすっかり忘れてしまった。その反省から忘れないうちに、暇なときにやっておこうと投票した。


 過去のわたしだったら、忙しくも投票日に行っていたと思う。それもギリギリの時間に。なんとなく、大事なことだから時間の許す限り考えた方がいいよね、という意識があった*1。と言ってもそりゃ自分と100%同調できる人間がいないように、100%信頼できる候補者など一人もいないのだけれど。立候補して、政治家になろうとうする人間は*2違うジャンルの人間だと思う。同じ教室にいても、絶対仲良くなれない人たち(だって今まで、何かを積極的に仕切るような人たちとの間にいい思い出があるだろうか?)だ。それでも、ちょっとでもマシな異星人を選ばないと、もっと仲良くなれない仕切り屋が幅を利かせて、もっと居心地の悪い空気を作るのだろうなと思い、投票する。

 
 消去法の選択だから、どうせ書く名前はそう変わらない。選挙期間に大きいスキャンダルがあれば別だが、所詮は消極的な選択だ。それでも「まだこっちの方が、マシです」「わたし、ここにいます」と言うために行く。出席確認でけだるく「はい」と答えるように。いるのに欠席だと思われて、貰える出席点を落とすのは損だ。もう気持ちが固まってしまったのなら、とっとと出席してしまった方がマシだ。

 
 投票日というのは、一つの「特別な日」と見なされていると思う。国民/都道府県民/市民全員が参加しなくてはいけない日。運命の審判が下される日。TVは特別番組を深夜まで組む日。多くの人は、投票日をゴールと定めてカウントダウンをする。でも別に、投票日だけが投票できる日じゃないし、特別な日じゃない。期日前投票は2週間ほどやっている。むしろ投票日を神聖視するような空気、選挙に行くことは重要だと言わんばかりの空気、責任あることだから熟慮しなくてはいけないという空気が――人々を投票所から遠ざけているような気がするのだ。そんな重い責任、重要な判断、しんどいです。選択して未来を動かすなんて、荷が重いです。何かして、何か悪くなってしまうなら、そして本意に100%沿うものがないなら、なにもしません。だって、それは、わたしの本意じゃないから。――きっとそのような気がするのだ。もちろん、自分にとって「どれがマシ」なのか、そもそも自分はなにを求めているのかが茫漠としている人もたくさんいるのだろうけれど、かれらに向けたサービスやフローチャートは探せばたくさんあるから深入りはしない。


 「若者の低い投票率」といった話を聞くたびに、解決策として挙げられるのは投票日・所の認知や、どの政党が自分の近いのかといった診断テストなどだ。一部の人間には効果を発揮するだろう。でも、それらは選挙(日)の神聖視を強めているだけに思える。神聖視を強めれば強めるほど、畏れおののいて足が遠ざかるといったパラドックスが生じるように思えてならない。おめかしの選挙、じゃなくて普段着の選挙でいいのだと思う。けだるく「はい」というような選挙。まだコイツの方がマシと人が読める字で投票用紙に書く選挙。もらえる出席点はもらっておいた方がいい。誰にも根本ではなびかないけど、「わたし、ここにいるんだけど」って言えば、教室の仕切り屋(予備軍)どももちょっとはわたしらに気を使ってくれるはずだ、きっと。

*1:結局、候補者のtwitterを直前にざーっと見て決める程度なのだが。

*2:たとえどんなに考えが近く、共感しやすいバックグラウンドだとしても

発話の筋肉

 働いてから、なかなか時間が取れない。労働のための準備や何らかのインプット、なにより寝たりぼんやりして心身を休める時間がこんなにいるのかと思い知らされる。こうして何かものぐるおしさに駆られて駄文を連ねることも、インターネットの片隅で駄文をポロリと露出させることも、精神を休めるはずなのだけど。


 どんどんブログを書く力が衰えていったなと思う。ものを書く筋力が使わずにやせ細っていき、ヘルパーさんの介護で何とか立つ高齢者のようになりつつある。以前ある人とブログが続かないという話をした。一度力作を作ってしまうと次もそれを作らなくてはと力んでしまってなかなか書けなくなる。ああそうだよなぁと思った。注目度もなく、インターネットの片隅でこそこそぶつぶつうめいているだけのこのブログですら、いるかいないか分からない読者の期待を考えて頭を抱えているのだ。最初、自分がやりたいから開設したはずなのに。


 そうして徐々に飼いならされていくのだろうかと思う。自分の内なる言葉を宛てる相手が見つからず、SNSやブログで内輪とその少し外側に向けて書いてきた。徐々に内なる言葉は枯れてきて、あーそっか、そうですか、はい。で終わりつつある。RTで大体事足りて、違和感すら人の感覚に委ねつつある。発話は会社の中での規範をいつのまにか内面化する。あれ?わたしの発話は?わたしの言葉の筋肉は?自らの言葉をさわる。以前とは違う所に肉が付き、肉がやせ、違う形状をしている。言葉は変わる。発話は変わる。わたしは変わる。変わることを恐れるつもりはない。いまから逃避するために今までもこれからも言葉を連ねる。問題は逃避する脚力が衰えていることだ。


 具体的に何かがしんどいとか、何かがつらいとか、そういうものは昔よりも減った。恵まれている方だとは思うし、昔よりも自分の扱い方は分かっている。ただレベルが上がると遭遇するハードルも上がり、専門性も際立つのでそういうつらさはある。漠然とした生活、社会、暇という余白が一気に減った日々。狭くなった地面では逃げる基礎練習すらままならない。筋肉が落ちる、わたしは変わる、でも腹の奥にある内なる言葉ーー言いようのない違和感やものぐるおしさはくすぶっていて、筋肉を動かし感情の残りカスを形にしないと、消化不良の発酵した感情の腐臭を漂わせて死ぬ気がする。


 少ない足場で足踏みする、踏み台運動のような言葉の軌跡だけれども、これは発生練習であり、リハビリであり、逃避への狼煙なのだーー死なないための、いまを捨てるための、飼いならされないための、内なる言葉を腐らせないための。