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呼び起こす会話 音楽やアート

さよなら(したい)インターネット

  インターネットがつまらなくなった。似たようなブログも、ツイートも見かけた。もう言い尽くされた話かもしれないが、自分なりの言葉で語ろうと思う。

 

 ここで言うインターネットは、主にSNSやブログを指す。もっと具体的に言うならばtwitterはてな界隈。それらをよく見て、面白いと感じていたからだ。面白い情報が面白い人から発信され、こんなものあるんだ、こんな人いるんだという発見があった。5、6年ほど前の私にとって、インターネットは(当時はtwitter2chをよく見ていた)現実逃避の場であり仮想現実だった。中高生の頃は学校と家と習い事が生活のほぼ全てで、お金もなくオフ会に行くなんて選択肢もなかった。憧れだけは募らせていたけれど。

 

grjti.hatenablog.com

 

 インターネットはどんどん現実になっていった。かつてアンダーグラウンドな場所だったとは思えないほど。twitterで社会問題や炎上騒ぎ、議論を見かけない日は無くなった。誰かが誰かを批判し、晒し上げ、「啓蒙」し、白ハゲマンガが流れるのが日常茶飯事になった。テレビニュースでも街の声のごとくツイートが流れるようになった。学級会がそこかしこで行われ、放課後の部室のような空間は無くなった。緩やかな諦念だけがそこにある。

 

 最近の炎上騒ぎについては、追いかける気力もない。幸せな気持ちにならないのは目に見えている。何らかの主義主張を高らかに掲げたい人間が、炎上対象を自らの提唱する理論にあてはめ、「ここがおかしい」と述べる共通項探しのゲームと化している。

 

 自らの「正しさ」を主張するため文脈を歪めて解釈する。我こそ「正しく」「弱い」のだと錦の御旗を掲げ譲歩なき「正しさ」で糾弾する。声を上げることが大きな成果を上げることもあるだろう。しかし的外れな主張で、自らの「正しさ」に固執するあまり魔女狩りと化しているものがほとんどに思える。完璧な解釈などできないから仕方ない話なのだが。共通項探し、モデルのあてはめ方が短絡的と感じることが多くなった。単純な理論ほど人を惹きつけ、理論的整合性がとれていれば人は納得する。たとえ暴論でも、理論と対象の対応関係が合っていれば人は納得してしまう。

 

grjti.hatenablog.com

 

 
 韓国ドラマを見ていると、勧善懲悪譚が多いことに気づく。多くの場合悪は悪徳大企業や財閥といった既得利権を持った人・集団で、善は中小企業や一般庶民だ。そして悪の妨害に対し善が巻き返す方法はデモやSNSでのキャンペーン・口コミが多い。いわゆる草の根運動だ。理想を叶えられるフィクションで、利益独占をする財閥等はコテンパンにやられるのだろう。デモやSNS草の根運動が登場するのは、自らの手で自由を勝ち取った意識が強いからかもしれない。

 

 国に関わらず、ひとは勧善懲悪の物語を求めている。そして自らが苦境にあると思う人ほど、いま恵まれている人は「おかしく」、自分こそ「正しい」のだと思いたくなる。実際にそうなのかは別として。自分が「正しい」と思える人ほど、「間違った」人が許せなくなる。そして是正されて然るべき、社会的制裁を受けるべき、痛い目に遭わないと「気付かない」と思うようになる。その時全く罪の意識はない。なぜなら被害者こそ自分であり、加害者は相手で、自らは善行を行っていると認識しているからだ。

 

 日々の荒波の中、しばしひとは自分を見失う。生き方の指針が分からなくなる。自分の生き方やセオリーが正しいと信じられなくなる。苦境の時こそ、今までの生き方が肯定されてほしい、承認されてほしいと願う。だから自らを正しい、被害者なのだと思いたがる。勧善懲悪譚への信仰は反射された祈りなのだ。裏側には「自分の生き方が正しいものだと証明されますように」という願いがある。全く違う生き方の人間は許せないし、共感者を集めて安心したい。一人では自分の生き方を信じ切ることができない。炎上騒ぎはさながら未知のウィルスに出会った免疫の過剰反応のようだ。

 

 

 

 

 最近、インターネットで自分の気持ちを表現するのをためらうようになった。TLの人はもちろん、FF外の人の目に入り、いわれのない誤解をされたり、嫌な思いをされたらやだなだと感じた。ネガティブなことを形にしてもいら立ちが反復されるのがほとんどだからだ。できるだけ好きなことについて書こうとした。好きなことについて語っている自分のことは好きだ。それでも予防線を張り巡らせている自分がいた。かつて現実逃避の場であったインターネットでこれでもかというほど遠慮をしている。気持ちを表出するのをためらい、疲れている。

 

 これは由々しき事態だった。同時にどれほど感情を表に出すのは許されるのだろうと思った。ちょっとした愚痴や弱音にもクソリプがつくインターネットなんてクソったれだと思う。しかしネガティブな、心の平安を乱すものをできるだけ見たくないのも事実だ。ダブスタとなっている。何かを主張する際も、自分の嫌な「正義を錦の御旗にして的外れな魔女狩りする奴」になっていないだろうか?と細心の注意を払う。同時に「うるせーーー知らねーーーー(ry」と叫びだしたくなる。

 

 どんどん現実社会に近づき、醜い様を晒すインターネットに昔のような希望を抱けなくなった。冷え冷えとした悲観が残るだけだ。けれどもインフラだからやめたくてもやめられない。SNSだけで繋がってる人もいるし、お金もある今は面白い人に会って話すという楽しみもある。その点では現実と隣接したSNSを享受している。ただ親しいフォロワーが就職等で徐々に姿を見せなくなっているのを見て、これが「正しい」姿なのかなぁと思ったりする。昔流行った本ではないが、ネットはバカと暇人のもので、忙しく充実した日々を過ごす「真っ当な」人々にとってSNSはもはや構う暇のない場所なのかもしれない。

 

 

 今の子どもは恵まれてるなと思うことが一つだけあった。情熱大陸で生き物ライターの人の特集をしていた。彼が小学生の子どもに特別レッスンとして夜の川でエイを釣る様子も放送されていた。小学生の男の子はネット記事に惹かれ、ライターの人にメールを送ったらしい。インターネットが発達し、知的好奇心をのびのびと広げられるようになった。会いたい人に気軽にコンタクトを取り、会えるようになった。これだけは幸運なことだと思う。

 

鎖を繋ぐ「啓蒙」、越境する創作

 少し前に、日本語ラップリスナー界隈で話題になった記事がある。目次の下の記事だ。以下、様々な観点から思ったことをつらつら書く。

  • まえがき
  •  本論
    •  ヒップホップカルチャーと女性差別
    • なぜ広く読まれたのか
    • ファンのあり方論
    •  鎖を繋ぐ「啓蒙」、越境する創作

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まえがき

  人の主義主張について、命令する権利は誰も持っていない。私も「あなたの主張を変えろ」とも、「主張するのをやめろ」とも言わない。そのかわり誰かに「変えろ、やめろ」と言われたら「は?」と答える。人の人生を妨害する権利など誰も持っていない。

 

 だから私は「あなたの考えのここがダメ、こうすれば良くなる」とは言わない。何が「より良い」のか、価値観は個々人のバックグラウンドに依る。ものの受け止め方・解釈も違う。分かり合うためのコミュニケーションは放棄してはいけないが、「完璧な相互理解」は諦めるべきだと思う。それがなされた瞬間、人は誰かのコピーになってしまうからだ。

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 「あくまでも、私は、こう思った」ということを書き記したいと思う。このように思った人がいることを、インターネットの濁流に小石を投げ込みたかった。「こう読まれたい」と思い言葉を連ねるが、解釈を強制することはできない。作品は放たれたら受け手のものだからだ。

  前置きが長くなった。本題に移ろう。

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