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呼び起こす会話 音楽やアート

どんなに語彙力を投入して推し語りしても神絵師の布教絵には勝てない

 オタクにとって、推し(当エントリでは、ジャンルや作品などの人外も「推し」とする)を語ることはライフワークだ。オタクはほぼそれしかやっていないと言ってもいい。推しに触れ、推しの情報を摂取し、推しについて語る。パッションを表現につなげる。オタクの活動は平昌オリンピックと等しい。少なくとも、twitterをするオタクの大多数はそんなオタクだ。情報収集用のアカで淡々とRTするだけのオタクもいるが、今回の話題の対象としない。

 

 オタクの語りたい、伝えたい、表現したいというパッションは様々な形で現れる。喜びであれ、哀しみであれ、怒りであれオタクは心のパッションを何かしらの形で昇華させる。そしてオタクというものは得てして「自分の得た感動をほかの人にも体感してほしい」と思う動物なのだ。一歩間違えれば怪しい宗教の狂信者である。語らう仲間が欲しい、この気持ちを共感してほしい。だからオタクは好きな人・ジャンルを「推す」。Passion Connected.とはオタクの願いなのだ。

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 オタクは推しへの思いを表現する。内輪の人間の共感やツッコミ、外側の人間に興味を持ってもらうことを待っている。しかしここでよく論争になるのは「オタク自分の言葉で語れや」問題である。オタク言語は変遷を遂げ、オタクジャンルの汎用性向上*1、オタクの「一般化」によりいまやミームとして市民権を得たように思える。前述の「オタクなハマり方」の互換性が向上したせいか、オタクミームも一般言語の転用がメインになってきた。(ex.「尊い」「しんどい」「無理」)もちろんオタク特有の謎理論とバイブスに溢れた謎構文は「オタクくさい言葉」として存在する。(ex.「2500円払えば推しの曲何度も聞けるとか実質タダ」)ただし十年ほど前、2ch文化全盛期のオタクにしか通じないタームはもはやあまりない気がする。(ex.「ギザモエスwww」とか)SNSでは言葉がシームレスに伝わる速度が速いのだ。

 

 オタクのパッションは定型文で表せる。同時にオタクは「語彙力が無いんで」と語る。定型文ユーザーの「語彙力が少ない」オタクと早口で文字情報を詰め込みに詰め込むオタクの二極化が進んでいるような気がする。世間のオタクイメージは早口オタクだったと思うのだが*2、現在のオタクのイメージは焼け野原の中を横たわり「しんどい……もう無理……」といいながらサムズアップするオタクだと思う。

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 お前が感じた感動をお前の表現で語ってこそオタクだろ!!!!という気持ちはわかる。私も「オタクたるもの己の性癖を己の表現で語れ」と常々思っている。おそらくコミケで金太郎あめのような同人誌を出すイナゴサークルへの嫌悪も、根底には「本当に推しが好きで、推しに感動して発信したいと思ったならオリジナルな表現になるはずだ」というオタクの「推し感動表現は至上で崇高なものである」信仰を汚すからだろう。

 

 ではなぜ定型文オタクは定型文しか使わないのか。ひとつは文字通り「語彙力が無い」から。胸中に生まれる膨大な感情の情報を当てはめる・処理できる言葉が語彙のストックにないのだ。汎用性の高い定型文は「何と表現したら分からないけどとりあえずなんか言わねえと気が済まない」という時に重宝する。もう一つは同様の理由だが、「推しの情報 / 生まれる感情が、あまりにも 複雑 /大量 すぎて、処理できない」から。いわゆるフリーズ状態。私もこの前「ニジンスキー」という素晴らしいバレエを見たがあまりにも情報量が多く、与えるショックも複雑かつ大きかったため、東京文化会館を出たあと「やばい」「すごい」「むごい」「えぐい」しか言っていなかった。ショックでそれしか言えないのだ。

youtu.be

 

 私は一癖もふた癖もあるオタクの推し語りが好きだ。一癖もふた癖もないオタクでも、推しを熱く語る文が好きだ。それで興味を持つこともあるし、持たないこともある。「ファンのファン」になっていたりする。言っても言っても伝えきれないもどかしさを湛えた文をいとおしく思う。

 

 しかし世間の趨勢は、もうオタクの推し語りを必要としていないのではないかと思えてくる。少なくとも、推し語り至上主義者は多数派ではない。情報にまみれ、多くの人が疲弊している現代社会。ウケるのは「分かりやすく・即物的」なものだ。ひと目で分かり、脳で処理するのに時間がかからないもの。欲望を満たすことに特化したものがウケる。いきなりステーキ。インスタ映えするきれいなもの。画面の前で見れば内容が分かるYoutube。脳みそのでの処理に時間がかかる文章は、情報過多な世の中で、疲れたオタクは目も向けない。

 

 だから「ブログ投稿しました」のツイもキャプションを書くより、本文のスクショをのっけたほうが「一目でわかる」から拡散される。文章より文章のヴィジュアルのほうが強い。とにもかくにも「一発で分かるヴィジュアル重視」の時代なのだ。

 

 「Passion Connected」の話に戻そう。布教・伝導力という観点で、限界オタクの推し語りはどうあがいても神絵師の神布教絵には勝てない。限界オタクが140字限界ツイートを数珠つなぎにして、それをモーメントにして、さらにブログやnoteで語ってもそれを読む人は少ない。限界オタクがどんなに感動を「外」の人に伝えようとしても、疲れたオタクは限界推し語りに見向きもしない。類い稀なる文才や知名度、ヤバすぎる文のバイブスがあれば話は別だろうが……。仮にそれを持っていても、神絵師の神絵にはどうあがいても及ばない。神絵師のヴィジュアル的にわかりやすく、魅力的な、即ステキと思わせるプレゼン絵には追い付かない。仮に神布教絵に限界オタクと同じ文章があっても、「伝わりやすさ」が断然違うのだ。宣伝力でもう負けている。私がどんなに深浦康市九段について魅力を語っても、梅田望夫氏の『シリコンバレーから将棋を観る』に及ばないし、私がどんなに「『シリコンバレーから将棋を観る』の深浦先生はムチャクチャカッコいいから読んでくれ、あと『深浦九段 恋愛を語る』って動画見てくれ」と叫んでも、神絵師が書いた深浦九段布教絵には及ばないのだ。

 バイブスは大事。

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

 

 

 もはやこの現代社会では、複雑なパッションを多量の言葉で解きほぐそうとした限界オタクは、時代遅れな生き方なのかもしれない。就活で疲弊し、タイトルで言いたいことをほぼ言ってるラップを聞きながらそう思う。言葉をつくし、複雑なものを表す・解きほぐすのはもう、時代錯誤なことなのかもしれない。

 

夏草や 限界オタクが 夢のあと

 

 

 疲れる現代社会。情報が氾濫しもはや処理が追い付かない時代。即物的な欲望が残り、即効性のあるコンテンツが生き残るのは明白だ。滅びゆく限界オタクとして、いやいつかまた立ち上がる限界オタクとして、夢の跡をインターネットに残し汚染させていこうと思う次第である。その間に神絵師は深浦九段の布教絵を描いてください。よろしくお願いします。

*1:漫画やアニメ以外にも「オタク」なハマり方をする人が増えた

*2:海月姫」の月海のトークが代表的

盤上の見えない血

 深夜2時のタイムラインにのぼったツイートは目を疑うものだった。画面の前で一言、マジかよとつぶやいたのち、神様のいたずらに笑った。こんなことがあるのかよ。信じられない事態を前にして、他人事ながら笑うことしかできなかった。決して嘲笑ではない。将棋連盟中継アプリを開き420手目の盤面を見た。言葉が出なかった。なりふり構わぬほどの執念。多くの駒が赤く「成り」、空白の多い盤上で、王将は互いに元いた場所から遠く離れていた。2月27日付竜王戦6組ランキング戦、牧野光則五段 - 中尾敏之五段 戦。戦後最長の420手を記録したこの対局は持将棋(=引き分け)成立となり、30分の休憩を挟み、翌2月28日 午前2時14分。指し直し局が始まった。

 

 将棋指しは「美意識」を持っている。「美しい棋譜を残さなくては」という美意識だ。若き日の羽生善治がいうように将棋は「ゲームに過ぎない」のだが*1、芸術的な側面を有しているのもまた事実である。ひふみんこと加藤一二三は「自らの棋譜は芸術作品だ」と言って憚らないし、タイトルホルダーは、称号にふさわしい「美しい」将棋を指さねばという重責に苛まれることもある*2。最短距離の美しい手順。負けを悟ったら潔く「投げる」こと。彼らの審美眼や美意識はわからないが、棋で対話しながら「美しい」作品を作っていくことは、我々の日常から大きく離れており、魅力的に映る。 

 

 棋譜が審美眼を究めた強者たちによる「作品」だから新聞社は棋譜を買い取り、平等な対局料を払う。真剣勝負でないと生まれない、残酷な芸術だ。

 

 「粘る」ことを美しくないと見る人もいる。諦めない手は往生際が悪いと。しかし、どうして無駄と断じられる?何が起こるかがわからないのが盤上であるのに。勝負への執念は棋譜に「美しさ」を超えた彩りを加える。加藤一二三が言うように「人の心を打つものが芸術」ならそれもまた芸術なのだ。かつて、電王戦で塚田泰明九段が持将棋に持ち込んだ時、解説人は困惑の表情を浮かべていたという。棋士のオーセンティックな「美意識」からは反するからだ。それでもここで負けて、人間チームを負けにしたくないと語った彼の姿は多くの人の心を打った。

 

 中尾五段にとってこの一局は負けられない一局だった。勝てば現役続行に大きく近づき、負ければ引退の可能性がぐっと高くなる状況に立たされていた。正確に対処され、極限まで追い込まれた彼を支えたものは何だったのだろうか。指し続けていたいという思いだったのだろうか。それは本人しか分からない。

 

 指し直し局は100手目をもって、午前4時50分、牧野五段の勝利に終わった。いかなる状況でも勝者と敗者が生まれるのが勝負のむごいところだ。しかしそれゆえ勝負に惹かれてしまうのもまた事実だ。

 

 加藤一二三の特番で、先崎学九段はこう語った*3 。

 

1対1で檻の中に入れられた人間が戦うっていうことなんですよね


「相手は当たり前ですけど、必死に勝とうとするから、その必死にやってくる相手に対してそれ以上の気持ちを持ってないと、崩れちゃうんです。何かが。崩れたら負けなんです。だから常に気が張ってる、心が張ってる。耐えられなくなるんです。楽にやったら楽ですから。」


「だからそういう意味でどっかでみんなあるんだろうと思います。バランスを取る意味での、何かが」

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 将棋にかかわらず、勝負事というのはむごたらしいものだ。極限状態に人を置き、全てを賭けさせ最高の勝負を見る。勝負を娯楽として消費する私たちは、奴隷のデスマッチを見る古の人々とそう変わっていないのではないかと思える。背負うものが多きれば大きいほど、勝負は熱くなり、現実はフィクションを超える。観客は熱狂する。プレイヤーも戦えて本望だろうが、時にその残酷さにわたしは息を呑んでしまう。そして憎らしいほど極限を見せる現実に、熱狂する自分にも。

 

「盤上には棋士たちの見えない血が流れているんです」

 
 漢の中の漢、深浦康市九段はかつてそう語った。悔恨、無念、失望……。様々なものを背負い勝利を掴もうとするかれら。背負うことや思うことは人それぞれだろうが「勝ち」と「負け」しかない世界は血も涙もなく非情だ。黒い漆で区切られた81マスの宇宙には今日も静かに傷口の跡が残る。時に現実に熱狂しながら、つわものたちの行く末を、祈る。

*1:この言葉は将棋はゲームに過ぎないから人生経験などは関係がないという、研究重視な現代将棋の幕開けを象徴する言葉。

*2:フィクションだが、『りゅうおうのおしごと!』の主人公、九頭竜八一は竜王にふさわしい将棋を指さなくては、という意識からスランプに陥る

 

 

*3:ちなみに番組ではこの後スランプに陥った加藤九段を救ったキリスト教信仰についてのVが流れる。