人と同期できない
駅を歩くと、いつも人にぶつかりそうになる。大して人が多いところでなくてもぶつかりそうになって、互いに止まって、少し頭をさげて、手を前に出してここ通りまーすと歩く。へんな間が流れるたび申し訳なさに襲われる。同時にぞろぞろと流れる人の流れを見てなぜみな滞りなく歩めるのだろうと思う。
中学時代、公民の先生が「改札をうまく抜けられなかったら抜けそうな人の後ろをつければいい」と言っていたのを実践しているが、トロい私は鋭敏さや効率的な動線からどんどん離れていく。平均的な人間の平均的な思考回路から少し離れて、ショートしたり迂回しているのだろうなと思う。無茶苦茶なルートを提示する乗り換え検索のような私にみな白い目を向ける。スーツや流行のファッションに身を包んだ人が3番線のプラットホームを目指して歩むとき、私の頭は口当たりの良いお菓子みたいな考え事をしてふわふわ歩いている。みなが重いステップを踏む中、私は変拍子のステップを我関せずと踏んで不協和音を生む。耳にノイズが入った瞬間、私は重いステップが空間を支配していたことに気づいて、申し訳なくなる。変拍子を無理やり重いステップにしようとするのだがそれでも1テンポズレているような気がする。
自分の思考回路が人と違うのだなぁと感じることがよくある。バイト先で早とちりしたり、非効率的なことそうだと分かりながらやっていたり。何かしらミスするときは「ああ、このやり方ダメなんだろうな」と思いつつも体はなぜかそこに流れていく。切迫感が抜け、失敗してようやく重いステップに気づく。私の人生はそれの繰り返しのような気がする。
電子音楽で「同期」という考え方がある。違う楽器・機材をつなげて一つのメロディを作る。その時テンポを合わせるそうだ。私というシーケンスはこれから先、誰とも同期しないのだろうかという思いが時たま襲う。私が持つリズムはきっとこれから誰の音楽とも合わないんじゃないか。不協和音ばっかなんじゃないか。人とぶつかりそうになるたび私はずっと誰とも同期できずに生きていくのだろうかと思う。人と人は、心と体が分かれてる限り分かり合えないというのが持論なのだけど、誰とも調和せず、理解されず、愛されず、孤独に死ぬのかなぁと思う。それは恋人がいるとか、家族がいるとか目に見える事実や形態のことではない。集団の中で上澄みだけをすすってうまく生きてるつもりでも、根本にある私のリズムでステップを踏む人も、セッションをする人も誰もおらず、ただ自分のための音楽や自分のためのステップを一人で踏み続けるのだろうかと思う。
自意識過剰な被害妄想や、特別だと思いたい気持ちが暴走しているのは確かだし認める。そう思って自分を保ちたいところもどこかにあるのだろう。でも人にぶつかるたび、誰とも交わらないのかなと思う。わがままに生きてしまった。「社会化」というのは多くの人と同期しやすいように変拍子を削っていくことで、自分の変拍子が好きだった私はそれに反抗してきた。相変わらず変拍子は厄介だが好きだからこれからも抗うつもりではある。それでも私は無様な自慰みたいなステップを踏み続けるのだろうかと思う。セッションがしたい。けれど変拍子でいたい。わがままで青臭くてどうしようもないけど、身もふたもなく言うと社会化されない自分のままで愛されたいし人と交わりたい、同期してみたい、ただそれだけのことなのだ。
駄々っ子は今日も東京のどこかで大人とぶつかる。モラトリアムの戯言も今のうちだろう。本当はずっとそれを言える立場にいたいのだが、変拍子を無理やり重いステップに変えるから、許してほしい。
大相撲がしんどい
こんなタイトルのエントリを書きたいと思う日が来てほしくなかった。しかしいまの私はこれを書かないと気が済まないから書くことにする。ただのいちファンとして。
「稀勢の里がしんどい」でも書いたが、もう相撲に関してはどこか冷めてしまったところがある。twitterでRTはするが自分からはつぶやかない。実況ツイの頻度も減った。リアタイ視聴、巡業へ、チケットが取れない本場所への執着も失せた。それは相撲報道への失望やファン層の変化、改善が見えない運営(日本相撲協会)への諦めが原因だった*1。大相撲はファンが多いので「私が財布を開けて/手紙を書いて支えなきゃ」という気持ちにもならない*2。
貴ノ岩関の診断書を見た瞬間、悪い予感がした。ただならぬ病名にTLがざわついた。日馬富士関の暴行なんて信じられなかった。いわゆる昔気質の荒っぽい、粗野で無頼というイメージから一番遠いとこにいる関取だったからだ。ただ彼が手を挙げたことが徐々に否定できなくなった。静かに、ああ、認めようと思った。
報道が過熱するなか九州場所は不気味なくらい通常通りに行われた。むしろこのような状況だから普段通り行われたのかもしれない。不祥事ばかりで不満ばかりなのになんで大相撲のオタクやっているんだろうなと思った。しかし相撲を見れば分かることで、相撲は超!!!!!エキサイティン!!!!!!!!なのだ。力自慢の男と男が何かをかけて戦うから当たり前だ。単純に格闘技*3を見れば血沸き肉躍るのだ。やっぱ相撲は超エキサイティンだから相撲のオタクやめられねぇんだろうなと再確認した。大相撲というコンテンツはさすがウン百年続いてるだけあって面白いのだ。
超!!!!!エキサイティン!!!!!!な場所が終わり操作に関する報道がワイドショーを賑わせた。もうやめてくれと思った。千秋楽パーティーまで子細に報道され白鵬が歌った歌がなんだの報道された。千秋楽パーティーのカラオケなんていつもやってるもんじゃねぇかよヴォケと思った。
様々な報道が錯綜し、様々な言説や憶測がテレビでも雑誌でもネットでも入り乱れる。今もだ。対立構図が生まれ、○○派か、誰支持か、誰が「正しい」のかだけに話が集中する。しまいには本筋からズレたことまで叩かれ報道される。もういい加減にしてと思った。人々の暇つぶしなのはわかっている。確かに協会員同士の微妙な力関係を邪推し消費することもあった。邪推が面白いのは分かる。細かいどうでもいいことや噂やゴシップなんかより、事実関係だけを淡々と知らせてくれと思った。頭の中で何度も「素人は黙っとれ」の画像が流れた。
なんも分かってねえよヴォケ!!!!とテレビを見ると思う。twitterを見ても思う。私も私で今回の事件については意見がある。それと合わないファンの人もいる。意見を言いたくてたまらなかった。ただここで、いちファンのヨカタに過ぎない私が言ってしまうと、それも「素人は黙っとれ」になってしまう。玉ノ井部屋の床山さんがTV報道やコメンテーターに苦言を呈すツイートをしていた*4。所詮ファンだって詳しいことや真実は知れないし、「知りもしないのに外野で適当なコメントしている人」に変わらないのだ。ミイラ取りがミイラになってたまるかと思い、twitterに鍵をかけた。
テレビを見ている相撲をよく見る人も全然見ない人も、報道を鵜呑みにしないで欲しいと思う。知りもしないのに外野で適当なコメントしている人ばかり。本当にうんざり。
— tsukatch☆man (@tsukatch_man) 2017年12月5日
それでもそれでも、違う、そうじゃないと言いたくなってしまう。それは私が解釈厨で、自分の解釈に自信を持ってて、そこからズレた考察を見ると訂正したくてたまらないからだ。少なくとも全く相撲見てない人よりは解釈には自信がある。ただ判官贔屓や推しバイアスがあるから自分だって偏った視点なのは百も承知だ。どうせ人間みな誰もが偏っているのだ。
こんなにしんどい思いになるコンテンツ他にあるかよ。運営がクソとかコンテンツそのものの劣化とかじゃなく、報道とか第三者のせいでなんでこんな苦しまなきゃいけねぇんだよ。ふざけんなよ。ただ不祥事が起きた、対応して処置しました、これからはここを改善して頑張りましょうの話になんで収まんないんだよ。報道や人の悪気ない言説に心を荒らし、違う解釈のファンを見てうっ……となる*5。でも自分の解釈を言うと、心を荒らした人たちと同じになってしまう。好きなコンテンツのオタクとして、相撲と相撲ファンのため今は何をして、何を思い、何を書けばいいのだろうか。わからない。ただただ、大相撲がしんどい。
*1:これは前エントリ 「巡業、休場、相撲協会マーケティングの限界」にも書いた。
*2:手紙を書いて~に関しては、私の最推しこと稀勢の里関があまりにも多くの人に愛され、今さら気持ちをぶつけても大して変わんねーよな、そもそも多くの人から寄せられる思いが重すぎるのではと思っているのもあるが。
*3:と言い切れないところに相撲の魅力があるが便宜上言わせてもらう
*4:下記ツイートがそれだが、「ジャージ騒動」がきっかけでツイートしたもの。モンゴル出身力士が、巡業でジャージを着るなんてけしからんと報道されたが、外国人力士が皆無だった昔からよくあることだった。
*5:自ら地雷踏んでアホかという気持ちも分かる、しかし否が応でも入ってしまう。ヴォルテール理論は適用したいと思ってるが。