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呼び起こす会話 音楽やアート

ハチ「砂の惑星」を聞いて懐かしくなった話

ある日、youtubeを開いたら懐かしい一文が目に飛び込んできた。
 
 
 

「どうも、ハチです。」

 

 
 
うわあああああああ。ハチだ。ハチさんだ。ハチさんの新曲だ。少しは酸いも甘いもかみ分けた人間がイタいボカロ厨に戻ってしまうほどこの一文は私(世代)にとって感慨深いものだった。
 
世紀末人形劇のようなピアノのメロディと、英語の不明瞭な女声が混ざり合うイントロが流れるだけで十分だった。ハチの音だ。ニコ動だったら「中毒性が高い」「もう百回聞いてるけど全然中毒じゃない」とイキった厨房か工房がコメントする音だ。南方研究所によるアニメーションの、ぬるぬるした動きだけは時代の変遷を感じさせた。
 
ぎゅいんぎゅいんに鳴るギターと、「○○しようぜ」とまるでルンペン文系大学生革命家のような歌詞にはメジャー以降の空気を感じたけど。ああ、ハチだ。途中それはかとなく引用されているマトリョシカの、パンダヒーローのハチが。結ンデ開イテ羅刹ト骸のハチが。リンネのハチが戻ってきた。
 砂の1
 
コメント欄で歌詞解釈してる連中を見て「お前ら今までどこに隠れてたんだよ!!!」隠れキリシタンを見つけた気分になった。ここには5年前の空気が流れている。2010年代初頭、(私にとって)黄金期のボカロがそこにあった。
 
中学時代はボカロにどっぷりハマっていた。オタクを志向するようになった私は、彼らの間ではやっているものを吸収しようとした*1。しかし我が家にはパソコンがない。近所のツタヤでボカロコンピを視聴し流行に乗ろうとしたこの涙ぐましい(けち臭い)努力。はじめて聞いたミクの声には違和感を覚えた。特に音楽に関心を持たなかった人間にとって、ボカロ曲は二重三重の意味で未知の世界だった。そのなかでも1925ryoの曲は聞きやすくていいなと思ったのを覚えている。
 
母親の携帯でyoutubeを見て最新の流行を掴んた。動画となるとパケットがこわいので厳選に厳選を重ねた。ニコ動は専用アプリが必要だったのだ。憧れのニコ動を恨みつつ、好きな曲を増やしていった。ありがとう初音ミクwiki。同志と歌詞解釈に会えて俺はうれしかった。携帯でもサクサク見れたし。
 
最初はキャッチーでとっつきやすいボカロックが好きだった。しかし色々漁っていくうちに持ち前のひねくれ根性を発揮し「感性の反乱β」「ハイセンス」系ばかり聞くようになり教室のオタクとボカロの話で通じ合わなくなった。「ミリオン行ってる曲は中二のオタクが好むけどワイは違うで」というめんどくさいイキリオタクだった。
 
そんな私だがハチさんは好きだった。歌詞・作者の暗い感じや、独特の世界観に惹かれた。リンネなんかサムネがすごく毒々しくて直視できないけどつい見ちゃう。厭世的でせせら笑うような、どっか哀切でひねくれた歌詞。遊び心と普通のポップスから逸脱した「中毒性の高い」音。音楽同様「ハイセンス」なイラスト(しかも作者本人が手掛けてる!)。表舞台に出るような題材ではないけど多くの人を掴むものがあった。キャッチーで目とあとを引くひねくれ・中二感だった。ニコ動でウケる文法を満たしていたのだ。
 

 大百科掲示板あたりでハチさんと呼ぶかハチPと呼ぶか論争をしてたのが数日前のことのように思い出される。

歌詞論争でハチさんはこう考えてるはずだ、いやこうだ、すごいこの解釈天才!!といったレスが流れた。歌い手の替え歌で賛否両論になったこともあった。ボカロ厨死ねといわれボカロは死んだとも言われた。在りし日が懐かしいものだ。

 

往々にして作り手は神格化されるが、「ハチさん」の響きにはほかのボカロPにはない重みがあったように思える。意味深で厭世的な歌詞とツイートやブログは、ニコニコ動画に群がる少年少女たちに経典として崇められたのだ。オタク文化が徐々に市民権を得る中、アングラと表舞台、メジャーとマイナー、さまざまフィールドを交錯し飲み込みボカロは爛熟期を迎えていた。その熱狂の中ハチは米津玄師としてシーンを旅立つ。匿名で有象無象の音楽家が集まるニコ動から一般流通へ、素の名前で勝負に出たのだ。
 
ハチの「引退」以降ボカロはピークを過ぎ別のフェーズへ入ったと思う。個人的な主観が入っているのは否めないが、2010年代初頭にミリオンを多数打ち立てたボカロPが引退したりメジャーへ行った。「肩身の狭い少年少女の楽園」としてのオタク文化は消え去り、ありとあらゆるものがオタク的な文法を身にまとうようになった(それが真に「オタク的」であるかどうかは別として)。セブンティーンのモデルが「銀魂やボカロ好きなオタク系女子」と自己紹介していたのを見て、私は時代の変化を感じた。そして彼女のフェイバリットには、米津玄師の名前もあった。
 
毎日見ていたランキングも、ある日を境にてっきり見なくなった。カゲロウデイズがトップに立った日だ。カゲプロは「物語音楽」なのが革新的だった。カゲプロ以前のボカロ曲にもストーリーはあったが、一曲完結で、キャラクターはいなかった。歌詞の物語性を追求したければ小説でやれと思っていた私はカゲプロブームを苦々しく見ていた。単に話と、メロディが好みでなかったのもあるが。
 
 
1stのdioramaはひねくれて中毒性の高いハチ節と素直なアコースティック調の曲が半々だった。駄菓子屋商売みたいなハチ節も、viviのような素直な曲も好きだった。
米津玄師はメジャーレーベルへ移り、徐々に活動の場を増やしていく。ロキノンにはインタビューが載り、連載まで持つようになった。渋っていたライブもやるようになった。着々とリスナーを増やし、CMに抜擢され彼の音楽が地上波で流れた。フェスにも出るようになった。
 

www.youtube.com

 

diorama

diorama

 

 

米津玄師の登場以降、「中毒性の高い曲」という表現がロキノンに出るようになった。他の音楽雑誌でも常套句となっていく。ニコ動用語だった「中毒性」がメジャーな紙媒体に出るのと同様に、彼の音楽性もロキノン寄りになっていく(風に感じられた)。サブカルもオタクもボーダーレスになり、文化は記号でファッションになった。インターネットはアングラでもなくなった。かつての肩身の狭い少年少女たちは年を取った。彼らは今何を聞いているのか?どこにいるのか?楽園は見つかったのだろうか?

 

多くのボカロPが卒業し、ボカロは衰退期と言われた。じんがアジカンのトリビュート盤に名を連ねるのを見て、ここ数年の趨勢を思い知らされた。追っていないので分からないが、ボカロはかつてのミリオン曲をなぞらえた曲が流行し、新しいものを生み出す潮流が弱い印象を受ける。邦楽も既存曲の劣化コピーばかりで袋小路と言われた。しかしここ数年、邦楽シーン面白いよね、といった流れができていると思う。若手もベテランも入り乱れ、面白い作品が世に放たれている。

 

diorama以降、youtubeにアップされた新作はチェックしたがどれも琴線には触れなかった。万人受けするロキノンポップスになってしまった風に思えた。もともと米津玄師がロキノン系に影響を受けているのも知ってはいたが。メジャーデビューして化粧が薄くなったV系バンドから離れたバンギャ、というのが一番近いかもしれない。ニューウェイブにどっぷりハマったこともあり、アルバムまで聞くことはなくなった。そんな時、砂の惑星が話題になっていた。ドーナツホールもあんまハマんかったしな……とyoutubeを覗いた。懐かしい一文とメロディがあった。ハチの名前があった。

 

www.youtube.com

 

まだ20年しか生きていないが、ハチの音楽は私にとって青春の音楽だった。コメント欄も中学時代に見たそれだった。しかし「マジカルミライ」のテーマ曲としては今までと全く違う。技術の進歩やボカロシーンを肯定的に、未来は明るいと語る今までのテーマ曲と真逆である。砂の惑星がボカロシーンそのものの暗喩かどうかは分からない。ただ諦めの上の前進、といった雰囲気を感じる。それは米津玄師がよく歌うテーマでもある。

 

いまは2017年で、決して2010年や11年ではない。昔のようにいたずらにこれからはよくなる、ハッピーエンドで大団円だと言える時代ではないように思える。オタク文化は市民権を得た代わりに、アングラ感は薄まった。肩身の狭い少年少女たちは大人になりユダヤ人のごとく離散した。オリンピックがあろうと、明るい未来は保証されていない。そもそも明るい未来などあるのだろうか。ユダヤ人な僕らが承認される場所はあるんだろうか。不安な思いを抱え生き、稼いだ金を娯楽に使う。不安を忘れるために。

 

どうあがいても過去には戻れないし過去のシーンはまた生まれない。かつて好きだった人も変わるしもう戻ってこない人もいる。それでも不安を抱えつつも生きてゆくしかない。そして何かをまた新しく作るしかないのかもしれない。このくそったれな時代における、おのれの楽園を。

 

twitter.com

*1: 詳細は以下エントリを参照のこと(大した話じゃないけど)

grjti.hatenablog.com

「○○女子」への違和感 (スージョ論考)

 先日、バイキングを見てたら将棋が特集されてました。私が個人的に気になる佐々木勇気六段 *1 にまつわるエピソードが紹介されほほえましい気持ちで見ていました。が、ファンのツイートが紹介されたあたりで不穏なものを感じました。そしてひな壇のトークで嫌な予感は的中し、「最近は『将棋女子』も多くて、未婚の棋士などに熱い視線を……」

 

うわああああああやめてくれええええ。

 

ず○○女子をやめてくれ。○○女子でくくるのをやめてくれ。そもそも「女子ファンはこういう風に見てる」って紹介するのやめてくれ。あと未婚とかガチ恋心理に近いこと触れるのやめてくれ。みんなガチ恋とか結婚対象として見てるみてえじゃねぇかよ。そういう風に紹介すんなよ。やめてくれよ。しかもそういうこと言ったのがよりによって女性のコメンテーターだったのもすげぇモニョるんだよ……などまぁ遺憾の意です。

 

 紹介されたファンのツイートは自分もtwitterで見たものでした。ついに佐々木五段が世間に見つかってしまった、といった内容でした。「マイナージャンルでガチ恋してる人が世間に知られてしまった!」みたいな文脈で語られた(風に少なくとも私は思えた)のが遺憾の意だったんですね。おそらく見つかってしまった、って言葉には「マイナージャンルで外界から変な干渉や紹介されずに済んだのに」って意味もなくはないのかなーと思いました。将棋に関しては完全ミーハーで、ファンの空気も分からないので憶測ですが。ただ見つかってしまった、と言いつつも「自分の好きな人/ジャンルの良さが広まってる!」といった喜びも感じられました。

 

 どうしてそんなに目くじら立ててるのかというと、相撲界隈と重ねちゃうからです。相撲も将棋も「おじさん/男が好きそう」で古くからあるエンタメじゃないですか。どちらも不祥事等で一度は下火になりつつも最近また盛り上がってるじゃないですか。「カープ女子」とかもイケメン選手に盛り上がる女子ファン、って用法をよくされてるのにガチ恋的な取り上げ方は少ない気がします。たぶん野球はもともと盛り上がってて、そこに女性ファンが増えていったからだと思うんです。一方相撲は女性ファンの取り込みと比例するようにまた盛り上がっていったんで「スージョ」って言葉がステレオタイプ化されちゃったと思うんです。力士に萌えて、アイドルみたいにキャーキャー言って、ガチ恋に近い気持ちを持つってイメージに。

 

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 「スージョ」の背景にはtwitterを欠くことができません。「千代丸たん」などはその典型例でしょう。勝負師としてこわい、いさましい、などマッシブなイメージの力士がSNSで「萌え」として消費されていく。遠藤などイケメン力士に黄色い声を上げる女性。若い層の相撲の受け取り方が従来のファンと大きく違うことが目を引いたのでしょう。そして「今までとの違い」を強調するために「女性」が打ち出された。まぁ女性を消費に取り込もうといった意図もあるのでしょうが。

 

 結果「○○女子」が「おじさんコンテンツ」の再興のキーワードになってしまった。そして分かりやすく伝えるために「○○女子」がステレオタイプ化されてしまった。もちろんテレビで伝えるような「○○女子」もいるでしょう。テレビの人もSNSの文脈まで読む暇もないのでしょう。 *2 ただ全ての女性ファンがそうなのだ、と受け取れるような伝え方をされるとゲンナリします。テレビも分かりやすく伝えるためにはステレオタイプ化が必要なのでしょうが。女の子だから恋愛対象として見てる、萌えとして見てると決めつけられるのが嫌なのです。さらにお相撲さんに、「恋愛対象として」「萌え対象として」狙ってる番組や仕事が多く割り振られると私はうーん……となってしまいます。お姫様抱っこされて喜ぶ人がいるのは分かっているのですが……。

 

  もちろん、テレビの制作の方にも一ファンとしてファン心理を熟知されてる人もいます *3 。情熱を傾けて取材や制作を行い、素晴らしい番組を作られている方もいます。時間の制限もあるのでしょうが、即物的に、その場のノリで適当に理解し適当に伝えていいのかと思うのです。そして才能のある人を、人気復活のために安直に使っていいのかとも思うのです。ファンのニーズに応えるのはありがたいのですが、本業に差しさわりのないよう、プロップスを落とさない形でやって頂ければなと願います。もちろん、仕事を受ける本人の無理のない程度で。

 

 女性だろうがオタクだろうが何であろうが、コンテンツ自体の面白さは普遍的なものです。推しポイントは人それぞれでしょうが、どのコンテンツもいかようにも楽しめる懐の深さが人気の秘訣なのだと思います。きっかけは顔の美しさや萌えエピソードだとしても、「女性受けする」以外の要素に惹かれていく場合もあると思います。人をアニメのキャラのように受容し、消費する傾向が昨今見られるのも確かです *4 。逆に言えば、すべてのコンテンツはアニメ的な、オタクに受ける要素を持ってるし、知らず知らずオタク的な要素に普通の人がハマっている場合もある。そもそも「女性ウケ」「オタクウケ」というカテゴライズが馬鹿馬鹿しいような気がします。「おじさんコンテンツ」もそう受け取られてないのです。ただの「相撲」であり「将棋」なのです。

 

 私自身「スージョって言うな、こちとらただの相撲オタだ」というスタンスなのでかなりひねくれた見解だとは思います。「スージョ」という言葉が生まれる前から相撲ファンだったので複雑な心境でした。「ようやく時代が私に追いついたな!!!!相撲の面白さがもっと広まる!!!!!!やったぜ!!!!!」という気持ち半分、「ぜんぜん私らの気持ちをレペゼンしてくれないやん……」という気持ち半分。まぁテレビにとってカメラを向けるべき存在から我々は外れているのかもしれませんが。ガチ恋しようと、萌えようと、どう消費し解釈し好きになろうとそれはファンの勝手です。ただ「女性ファンだからこう好きなんでしょ?」って決めつけてほしくない。そしてそういうノリにのっけた企画でプロの人を必要以上に消耗させたくない。それだけの話です。将棋に関しては藤井四段フィーバーで気になり始めた完全ニワカなのですが、相撲界の教訓(?)を生かして魅力が広まって欲しいなと祈るばかりです。

*1:放送当時は五段、昇段おめでとうございます。

*2:直にファンに取材して雰囲気つかめよと思わなくもないですが。

*3:TBSの相撲担当のスモートフォンさんは丁寧かつ密度の濃い番組を作ってて好きです。あさチャンコールも力士との信頼関係をうかがわせます。

*4:「ドンキ」御用達と思われたフリースタイルダンジョンで、モンスターと呼ばれるレギュラー出演ラッパーにオタクがキャラ萌えした例など。かくいう私もそれです。『ユリイカ』で、モンスターのキャラ立ちという点で、ダンジョンはおそ松さんに似ているといった指摘をヘッズ兼マンガ研究者の岩下朋世さんがしています。

 

ユリイカ 2016年6月号 特集=日本語ラップ

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