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呼び起こす会話 音楽やアート

それでも通じ合いたい はなしがしたい ー「ピロウトークタガログ語」とガチ恋

こんにちは。先日、面影ラッキーホールことO.L.H.のライブに行ってきました。どんなバンドなのかはwiki見てください。一言でいえば「最高の歌謡ファンク曲に最低な歌詞をつけて最高な歌声で歌う」バンドです。おじさまやおねえ様方が着るのに勇気のいるバンTを着て楽しそうにフリをしていました。OAがこまどり姉妹だったのですが、ライブハウスで演歌が流れ手拍子で盛り上がるといった異様な空間がそこにありました。何はともあれ最低なMC含め最高のライブでした。

 

ライブで、いい曲だなぁと思ったのがこの曲。「ピロウトークタガログ語

 

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タイトルの出オチ感がすごいですが名曲です。今までネタ曲だと思っていましたが名曲です(ネタ曲だけど)。ラジオ講座タガログ語あるかよといった野暮なツッコミはやめましょう。
この曲の何がすごいのか。メロディのよさ。ライブだと大人数のブラバンなので迫力が増します。しかしこの歌詞。曲の良さをぶち壊すどころか倍にしております。

 

新大久保に行けばあの娘に会える 街角に佇むあの娘
Vサインは2万円をあらわし 90分のラヴゲーム
ゲームに特別な意味を持った俺は 何時しか彼女を愛し
大きな隔たりはお金より 愛らしい口から洩れるタガログ語
 
アイリーン
言葉の通じない 褐色の肌
 
アイリーン
それでも通じ合いたい はなしがしたい

 

ああ……。わかる、わかるぞ……。
ラブゲームしたことないけどすごくわかるぞ……。
いったい何が「わかる」のか。歌詞を読み解いていこうと思います。

 

キーフレーズは「大きな隔たりはお金より 愛らしい口から洩れるタガログ語。これに尽きます。そして続く「言葉の通じない 褐色の肌」「それでも通じ合いたい はなしがしたい」
これほど「愛」について核心を突いた詞は恐らくないんじゃないか。

 

突然ですが「愛」って何だと思いますか。何でしょうね。「恋」との違いは何なんでしょうか。一般的な「恋愛」だけが恋であり愛なのでしょうか。ドルオタが推しに対する感情はガチ恋である/なし関係なく「愛」なのでしょうか。

 

世界には様々な「愛」があります。家族愛、親子愛、同志愛。師弟愛。世間一般で語られる「愛」は密な関係性の上に成り立っている愛です。一方アイドルやミュージシャン、スポーツ選手といった著名人を応援する、ファン心理は「愛」の枠外に置かれているような気がします。あくまでも「偶像とファン」であるから。密な関係性ではないから。アイドルとかは会うのにお金がいるから。話すのに、握手やチェキで自分だけとの時間を作るのに、お金がいるから。

 

 「すべての労働は売春である」

 とゴダールは言ったみたいです。わたしはこの言葉を、岡崎京子の『pink』で知りました。この言葉に同意します。モラトリアムという大学生活を謳歌してる身なので、本来は語る資格もないのでしょうが。自分の体(=労働力)を差し出し時間単位で売り物にし金を得る。性交渉の有無にかかわらず「自らを売る」という点において労働は売春なのです。

 

pink

pink

 

 

大正生まれの祖母は、生前わたしに芸能界に行くなと言っていたそうです。行けるほどの人間でないので余計なお世話だと思いますが。古い人の感覚で女優や芸能人といった職業を蔑視していたからでしょう。なぜ芸能人を蔑視したのか。社会状況や時代背景もあると思いますが、彼(女)らは「娼婦性が高い」からではないかと思うのです。芸能人が枕営業しているということではありません。彼(女)らの仕事は「パーソナルな部分を売っていく割合が高い」のです。

 

キャラクターや生活、生き様を売らなくてはいけない。考え方を、ヴィジュアルを売らなくてはいけない。彼(女)らは「自分自身が商品」なのです。一般労働者は「自分の能力」が商品なのに対し、より自分に近いものを売っていかなくてはならない。替えが効かない、唯一無二といった要素による満足感も大きいでしょうがリスクも高い。

 

ミュージシャンや、スポーツ選手はアイドルではないといった意見もあると思います。本来はそうだとは思うのです。しかし、一部のミュージシャンやスポーツ選手はその生き様、その人の人間性が「ウリ」になっている場合もあります。そこに魅せられているファンもいると思います。純粋に作品や強さ、技が好きなファンもいるとは思うのですが……。またスポーツも、「物語」ばかり報道していいのかといった問題も取りざたされます。作品や、競技っぷりには作り手や選手の人間性がにじみ出てしまうものなので、彼らが結果として「人間性」を意図せず売ってしまうのはやむを得ないことだと思います。ミュージシャンの場合は意図的に「キャラクター」を売っていることもありますし。
 
そこに関する葛藤や感情は、以下エントリにしたためました。あくまでも個人の意見ですが。
 
なのでここではミュージシャンやアスリートも「アイドル」として定義します。「人間性を(結果として)職能としている」人です。偶像という意味も込めて。
 

パーソナルなところをあけっぴろげにしても苦にならない人もいるでしょう。プライベートを晒しても全然平気といった人もいるでしょう。しかし芸能人やアイドルを愛でるということは、「人」を愛で「人」を愛し価値を認めお金を払う。コンサートで(1or数人対ファン集団の形でも)会いたくてチケットを買う。1対1で話したくてチェキを買う。「人」からサービスを受けるために金を払う。根本的な構図は売春/買春と変わりません。

 

もちろんアイドルやミュージシャンのファンには「人」に興味がなく「作品」が好きだからコンサートに足を運ぶ人もいるでしょう。ただ昨今の潮流としては、「人」が好きで行く人が多いのかな、と感じます。私自身ももそのタイプなのでしんどくなることもしょっちゅうです。「作品」だけ純粋に愛でられる人を何度もうらやましく感じました。
 
 
アイドルや芸能人は、自分自身が商品であると書きました。これはある意味では正しいし、ある意味では間違っています。ルックスなどが「商品」であるのはどんな芸能人でもそうでしょう。ミュージシャンの場合はそうじゃない場合も多々ありますが。自分の生き方や人間性、他の人との関係性も商品であったりもします。ただこれに関しては、必ずともすべての芸能人が「リアルな自分」を売っているとは限りません。パーソナルなところを守りたい、仕事とプライベートは別と割り切ってる人は「アイドルとしての自分」を商品として作り出すこともあるからです。「パーソナルなところ」込みでその人が好きなのか。「アイドル・芸能人として仕事をしている」商品としてのその人が好きなのか。そもそも、ファンがみられるアイドル・芸能人等はどれほど「リアル」なのか。
 
 
ファンはそれが分からず苦悩します。「商品としてのアイドル」が好きな人はなにがあろうとドライに割り切れるでしょう。しかしアイドルの人間性が好きな人はどうなるか。熱愛報道や、プライベートなやりとりが流出する。自分が知らないアイドルがそこにある。自分が知ってるアイドルはどこまでリアルなのか。愛していたのは蜃気楼なのか。それとも自分たちのために蜃気楼を出していたのか……。
 
 
「人間としてのアイドル」が好きな人はアイドルのことを知りたいのです。好きな人のことを知りたい。パーソナルなところを知りたい。きっと自分が見てるものは「リアル」(に近いもの)だからもっとパーソナルなところを知りたい。距離が近く密な現場にいる人は、「自分とアイドル」の密な関係性を構築したい。アイドルと「それでも通じ合いたい はなしがしたい」。ファンとアイドルという関係性にもかかわらず。顧客と商品にもかかわらず。観客と舞台の上の人であるにもかかわらず。その時、障害になるのはお金ではないのです。その人が職業ではみせないパーソナルな部分なのです。
 
ピロウトーク タガログ語
ほんの少し 話したいだけ
 
ピロウトーク タガログ語
あの娘のことを 知りたいだけ

 

「ピロウトークタガログ語」の話に戻ります。この曲でのタガログ語」は自らを売る人が持つ、商品でない部分なのです。商品としての「人」のパーソナルな部分。性交渉の相手でなく、いち個人として娼婦に恋に落ちた「俺」は「娼婦」でなく「アイリーン」が好きなのです。パーソナルな部分を知りたくなること、その人のことを知りたいと思うこと。それが「好き」な気持ちなのではないでしょうか。

 

ただ知識欲だけで「恋」と言えるなら偶像と観客の関係性でも「恋」が成立すると言えます。これだとちょっと言いすぎな感じもします。そこに「他の人では成り立たない、唯一無二のコミュニケーション」を求めると「恋」になるのではないでしょうか。愛は一方通行でも成立するような気もしますが。「恋」は見返りを求めるような気がします。というか書いてて「恋」と「愛」の違いが分かんなくなってきました。「ファン」としての唯一無二のコミュニケーションを求めるか、それとも「推しにとって唯一無二の存在」としてのコミュニケーションを求めるか。これが一般的な意味の「ガチ恋」か否かの境界線な気がします。

(1対1で)特別な関係性になりたい、といった感情はふちりんさん(遠目でそっと見ています)のこの言葉に尽きるんじゃないでしょうか。

 あの娘と愛を交わしたくて

何とか覚えたタガログ語
 
ふっと話したその言葉の意味が 解りたい
ふっと話したその言葉の意味が 知りたい

 アイドルなどに推しがいるファンは、「タガログ語」を覚えたがるのです。推しの好きなものが知りたい。わかりたい。共通言語が欲しい。同じヴィジョンを見たい。

 

愛とは、互いに見つめ合うことではない。
ふたりが同じ方向を見つめることである。

 とサン・テグジュペリは言ったそうです。「タガログ語」は愛の始まりなのかもしれません。同じ方向を見つめながら「通じ合う」こと。

 

谷崎潤一郎漱石の小説の中で『それから』だけは恋愛小説であると評したようです。恋愛小説とは「互いの気持ちが通じ合う様子が書かれ」た小説なのだと。通じ合うことへの希求を哀切に歌う「ピロウトークタガログ語」は最高のアイドルへの片思いソングなのだと思います。

 

「ピロウトークタガログ語」が入ったアルバムはこちら。

 

代理母

代理母

 

 アイドルの「リアル」・偶像性や、谷崎の恋愛小説論(『刺青』恋愛小説論争)についてはこちらにインスパイアされました。むっちゃおもしろい。

 

文化現象としての恋愛とイデオロギー (成蹊大学人文叢書)

文化現象としての恋愛とイデオロギー (成蹊大学人文叢書)

 

 

稀勢の里がしんどい

ある日、twitterで稀勢の里厚焼き卵をみた。どうやら稀勢の里の母校で稀勢の里の好物を集めた稀勢の里給食なるものが実施されているという。稀勢の里卵は稀勢の里メニューの一つで、細長い卵焼きに「稀勢の里関」という文字が整然と刻印されている。「稀勢の里関」の文字が刻印された卵が整然と並ぶ様子に言いようのない気持ち悪さを感じた。食べ物に不自然な加工をされているからかもしれない。マーブルチョコレートすら不自然な色が嫌で口にしないからかもしれない。


稀勢の里給食はほかにものっぺい汁、ポテトサラダ、イワシの角煮であった。イワシの角煮は銀色の袋に入っており、そこから黒っぽいキューブが出るさまは一瞬ディストピア小説を連想させた。実際食べたらおいしいのかもしれないが……。稀勢の里は休んだ子の分も食べるほど好きだったらしい。そう子供たちと共に給食を囲んでいた稀勢の里の母は仰っていた。


子どもたちは「今ケガしてるから頑張ってほしい」などテレビに対しよく出来たコメントをしていた。稀勢の里の母がいる前で「ぶっちゃけ照ノ富士の方が好き」なんて言えないしそもそも相撲興味ないとか言えないもんな。心が汚れ切ってしまった稀勢の里ファンなので一種の洗脳なのではないか……これも日本の右傾化か……とTV向けのコメントをする子供たちを見て思わずにはいられなかった。

 

 私は稀勢の里ファンである。でも本当は稀勢の里ファンで「あった」と言った方が正しいのかもしれない。稀勢の里が優勝し、横綱になってから稀勢の里はみんなの稀勢の里になってしまった。いやもともと誰のものでもねーしお前のものでもねーだろと言われるのは重々承知である。強いて言えば田子の浦部屋および日本相撲協会のものである。所属してるもんね。

 

稀勢の里は確かに大関時代から多くの人間の期待を集めそれ故に多くの人間を失望させてきた。そしてまた多くの人間の期待を集め以下無限ループを繰り返してきた。我々稀勢の里ファンは時に泣き時に笑いこの精神がすり減る状況をネタにして乗り越えてきた。

 

照ノ富士に優勝を抜かされた時も、琴奨菊に優勝を抜かされた時も、豪栄道に優勝を抜かされた時も。遠藤に負けた時やもうすぐ三十路といった現実を突きつけられるたびに絶望した。もうだめかもしれない。たしかに年寄株は持っているし、引退後相撲協会に残れる。けど、それじゃだめなんだ。俺は「稀勢の里の優勝」が見たいんだ。日本出身だから、日本出身横綱が出てほしいからじゃない。稀勢の里という力士が好きだから。

 

彼のお相撲さんぷりが好きだから。クソ不器用なほど愚直なさまが好きだから。それゆえ馬鹿だなぁと思うし不器用さで星を落とすようにも思えてほんとに憎らしかった。ここを直せばいいのに!とヨカタながら思うところの「ここ」こそが稀勢の里の魅力だからだ。相撲馬鹿さ、不器用さ。愚直さ。私はそんな稀勢の里の努力が実る姿が見たかった。努力は実るのだよ、ちゃんといい結果が待ってるのだよと。それを証明してほしかった。それを祈る相手は神様や運命だったのかもしれない。高校時代、不安定で歯がゆい思春期を稀勢の里とともに過ごしてきたのだ。

 

稀勢の里に期待し絶望しまた期待しテレビの前で何度も鼓動が高鳴った。テレビの前で笑い、泣いた。twitterで応援ツイートをしたから負けたのではないかと思うこともあった。馬鹿馬鹿しく思われるかもしれないが、私以外のキセファンのフォロワーも似たようなことを思っていた。そのくらい稀勢の里は我々の心をかき乱す「魔性の男(by舞の海)」だったのだ。夜の帝王北の富士さんだってやられてたのである。我々がなす術ないのは言うまでもない。

 

彼は彼の美学で口も割らない。「コイツほんとに悔しがってんのかよ!?」と怒ることもあった。「いやほんとに悔しいんだろうな、だってあんなに稽古してるもん……」と即思った。「でもせっかくはるまが出稽古来てるのに断るから……先代の教えに愚直なのはいいんだけどさぁ」とまた一人モヤモヤした。負けるたびファッキン脇甘腰高豆腐メンタルと暴言を吐いた。まるで独り相撲一人共依存一人(脳内)デートDV状態であった。

 

稀勢の里の胸を云々したいと(これに関してはtwitter稀勢の里へ深い愛を注いでいる先達がいる、ぜひともご自身の目で確かめてほしいtwitterで叫び、この無限ループをネタにし乗り越えてきたがやはりつらかった。周りの人にももう諦めたら?と何度も言われた。諦めるに諦めきれなかった。それでもこの状況が永遠に続くように思えた。

 

豪栄道に優勝を先に越されたときは流石に懲りた。素直に喜べなかった。そんな自分が醜かったし嫌だった。もう期待しない方が楽だと思った。今までは期待しない期待しないと言って期待していたが、もう本当にあきらめようと思いあきらめた。「どうせ負けるべ」という所で笑っちゃうくらい稀勢の里は負けた。期待を裏切ることに関してはほんとに裏切らなかった。相撲を見ても前のようにハラハラドキドキすることもなくなった。澄み切った、静かな気持ちで諦念を抱き見る相撲は楽だったが、楽しみも減った。私は相撲に物語とカタルシスを求めていたのだ。

 

稀勢の里は不気味な笑みを浮かべるようになった。取組前、まるで余裕綽々系悪役キャラに憧れる中二病患者のように。謎のアルカイックスマイルを浮かべるようになった。謎の笑みを浮かべる稀勢の里は以前にも増し安定した。

 

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2017年初場所、ついに優勝した。優勝が現実的になった13日ごろ、横審が優勝したら横綱に挙げてもいいかも、なんて言い始めた。あ゛?と思った。横綱昇進基準は2場所連続優勝かそれに準ずる成績だ。いかに稀勢の里が安定した好成績を上げてるとはいえ、甘すぎると思った。正直言って、横審は今まで稀勢の里を(というか日本出身力士を)横綱にしたいがため基準を緩めてきたように思える。初場所では日馬富士鶴竜に当たらなかったから、それでいいのかという思いもあった。というか、私自身が見たかった優勝がそんな優勝だったからだと思う。稀勢の里が優勝し、千秋楽で白鵬に勝ったと聞いた。優勝パレードをキセファンのフォロワーさんと見た。以前見た時と比べ物にならないほどの人がいて、老若男女たくさんの群衆の前でオープンカーは走り去っていった。稀勢の里を微妙に追いかけつつ、「幸せになれよ!!!!!」と叫んだ。幸せになって欲しかった。力士として、一個人、萩原寛として。

 

一方で、稀勢の里の優勝を祝う資格なんて私にはないのだろうなとも思った。稀勢の里を信じ切れなかった、あきらめた自分に祝う資格などないと。もともと横審の基準に対して懐疑的だったため、「横綱昇進おめでとう」ムードにも馴染むことができなかった。ただ大関昇進時も微妙な成績だったが結果一番大関陣の中では安定していた。「立場が人を作る」タイプなので結果としてはよかったのかもしれない。だが……。

 

稀勢の里が優勝し、横綱になり、世間は稀勢の里フィーバーに浮かれた。奉納土俵入りには信じられないほどの人が並び、「稀勢の里横綱になってうれしい」などとお爺さんなどがテレビで話していた。やはり疑い深い私はこの人は日本出身力士誕生嬉しいマンなのではないかと邪推しながらテレビを見ていた。稀勢の里は英雄視され、英雄として語られた。twitterでさんざん脇甘腰高豆腐メンタルな魔性の男とお茶らけた調子で語られてた人間とは思えないほど。

 

世間の報道で語られる稀勢の里に何とも言えない違和感を覚えた。もちろん稀勢の里はカッコいい力士だし、カッコいい稀勢の里が好きだ。「努力で天才に勝ち」優勝した稀勢の里はカッコいい。ただ今まで期待を裏切ることを裏切らないところや不器用なところや色々しょうがねーなーなところをたくさん見てきた。

 

ひよの山数え歌で一人だけ明らかにやる気なさそうに歌ってる協調性のなさ(きっと彼はお相撲さんはもっとストイックで威厳のある存在であるべきだと思っているのだろう、最近は丸くなったが巡業でも潔い塩っぷりだった)などを見てネタとしてきた身としては稀勢の里ってそんなカッコいいか!?」と思ってしまうのだ。普段パッとしなかったり別に華やかな相撲を取るわけでもなく、平幕相手にぽろっと星落としてひやひやさせるキセがたまにみせる超カッコいい相撲が好きだった。なんでそれが普段からできない!!!!!ともどかしくなるのだがキセファンをやめられないとまらない。

 

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(ひとりだけ手の高さが違う稀勢の里に注目してほしい。流石大関!そこにシビレないあこがれない)

 

多分私はだめな稀勢の里潜在的に愛していたのだろう。だから稀勢の里の優勝が未だに嘘のように思える。パラレルワールドの出来事で、現実味のないように思える。何はともあれ、世間でキセが英雄として語られるうちに、ああ、彼は本当に「みんなの稀勢の里になってしまったのだなと思った。日本国民皆が共有する大きなハッピーエンドの物語。そこの解釈からそれてしまった私は居心地の悪さを感じた。

 

分かりやすい例で言うならフリースタイルダンジョンのR-指定vsTKda黒ぶち戦の1,2ラウンドだろうか。またR-指定の話かよと言われそうだが許してほしい。このバトルは熱い名勝負だし、私自身好きなものがクロスオーバーすると軽率に喜ぶオタクだったので嬉しかったのだが、やはり稀勢の里については違和感を覚えた。

 

TKda黒ぶちが「お前白鵬稀勢の里 見てみろこっちが横綱じゃーん」と最後に決める。それに対しRは「どんな相手でも土俵際頑張る」とアンサーする。「稀勢の里」が絶対に苦境でもへこたれず負けない戦士として語られているのである。違う、稀勢の里はそんなカッコいい力士じゃない。いやカッコいいけど今までここ一番で負けるシルバーコレクターだったぞ。あとRが白鵬なのは(時間守れないのや頂点行った人の苦悩や孤独含め)認めるけどTKお前稀勢の里というよりその早口日馬富士だろ。クソ真面目で「こうあるべき」キャラを貫通するあたり稀勢の里はDOTAMAだろ……。てか白鵬横綱だし……。と枝葉末節までツッコめばキリがないのだが。ともかくメディアや多くの人から語られる「稀勢の里像」に自分の見てきた「稀勢の里像」と乖離を感じた。周りの人間は「おめでとう!!!」と言ってきてありがとうと返したが、違うんだよ……コレジャナイんだよ……感を胸中に抱いていた。

 

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そんなRもこんなラップをしていた。Rは大阪のマイナーな地名よりも勢や豪栄道の名前でも出せば勝てたかもしれないのに…(余計なお世話)

 

そしてこの「コレジャナイ感」は次の場所で顕在化することとなる。

 春場所稀勢の里は怪我をおし逆転優勝した。泣きながらのインタビューがテレビで何度も流れた。

 

途中照ノ富士琴奨菊に対し変化で勝った。琴奨菊大関復帰がかかった一番だったため大ブーイングが起きた。私もtwitterでワック力士など照ノ富士を口汚く罵った。冷静に考えて照ノ富士は真っ向勝負で琴奨菊に勝てる実力を持ってるし、意地と意地のぶつかり合いな心躍る一番を期待してたのだ。しかし照ノ富士もずっとひざを痛めていた。琴奨菊も変化喰らいすぎやろといった見方もできる。照ノ富士はこの一件でヒールになってしまった。彼は彼でチャーミングで強くて素敵なお相撲さんなのに。照ノ富士はヒールといった認識がお茶の間のお約束になってしまった。

 

稀勢の里日馬富士との一戦でケガを負った。照ノ富士がリードし、稀勢の里は絶望的な状況だった。このまんま照ノ富士が優勝したらブーイングがひどい優勝インタになるのだろうかと思うと惨憺たる気持ちになった。一時は照ノ富士をdisった私も言うのもなんだが、やっぱ優勝力士は祝福されてほしいし、一時の感情に流されdisったが彼は彼でチャーミングな力士だと思っている(大事なことなので2回ry)。稀勢の里は休んでくれと思った。末永く相撲を取ってほしかったし、横綱という立場は番付が落ちないのだし(その分背負うものも大きいが)。

 

稀勢の里はそれでも出た。そして優勝した。「ケガにも負けない感動物語」として語られた。おめでとうと思った。けど、世間とのずれを感じたしモヤモヤした。前に私が言ったように昇進基準がビミョーだったからこそ横綱昇進後のいま、優勝しないとと思ったのかもしれない。照ノ富士が優勝して心無いヤジが飛ぶ優勝インタビューは回避された(しかし照ノ富士が国籍に関する心無いヤジを受けたのは事実である。「国籍」のような物差しでしか力士を見れないのは残念なことだと思う)。「稀勢の里の感動物語」の下に外国人力士vs日本人力士の構造を感じ取り、「耐え忍ぶ古き良き日本人の美徳」のようなお飾りをつけようとしてる風に感じるのだ。そんな日本人力士だから、稀勢の里に「日本人らしさ」を感じるから好きなわけじゃない。クソくらえだ。稀勢の里がこの時代に相撲を取ってるのが憎らしかった。

 

同様の感情は羽生結弦選手がケガしてもFSに出場した時も感じた。あの時も感動物語として語られたが、選手生命短くなったらどうするの!と思ったし「感動物語」として報道されるのに違和感を覚えた。

 

稀勢の里が報道によって、どんどん英雄になっていく。彼の美点が、脚色され喧伝されていく。報道で伝えられた「稀勢の里の物語」は私のようなへぼい1ファンの物語よりも強い影響力を持つ。みんなが語る稀勢の里と、私が語る稀勢の里は違う文脈にいる別人なのだ。本当の稀勢の里なんて、本人とごく身近な人しかわからないのに。

 

「みんなの稀勢の里」と「私の稀勢の里」の溝を見つめたまま、今場所を迎えた。優勝争いもこじれ、面白い場所である。しかしこの溝は埋まらないのだろうなと思った。今まで楽しみにしていた場所前の相撲ニュースを、冷え切った思いで見つめていた。

 

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今場所、稀勢の里は休場届を出した。ニュースにもなった。「みんなの期待を背負って」なんて言葉に内心毒づきながらもよかったと思った。責任感が強いから休む気になれなかったのだろう。巡業休んだし、多くのお客さんが自分目当てに来ることも分かっているのだろう。あと可愛い弟弟子高安の援護射撃する気もあったのかもしれない。初日の相撲を見て、休めばいいのに……!と思った。お相撲さんだから出る、もうなんなんだよと思った。相変わらず稀勢の里はムカつくくらい色んな人の心をかき乱す魔性の男だ。何はともあれ、休んでくれてよかった。別に無理しないで良い。相撲にならないのもそうだけど。今はゆっくり体を治して、長く相撲を取ってください。悔い無き相撲人生を生ききってください。次の場所の活躍を、なんて言わないから。万全の体制になるまで、ゆっくり休んでください。

 

 

 

 

 

それでもまた稀勢の里にムカついて恋しくなって振り回されるんだろうな。ほんとしんどい。無理、しんどい。